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『すべてを超える神の信実』2026年11月1日

5 分前
読了時間: 10分

説教題: 『すべてを超える神の信実』

聖書箇所: 旧約聖書 ヨブ記1:13-22

聖書箇所: 新約聖書 ローマの信徒への手紙8:31-39

説教日: 2026年11月1日・降誕前第8主日・召天者記念礼拝 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

■はじめに

毎年11月の第1主日は、召天者記念礼拝としてこの教会に連なり、天に召された兄弟姉妹を覚え、そのご家族も主の御前に集められ、共に礼拝をお捧げしております。今年、私たちは一人の兄弟を神の御許へお送りしました。Y兄は、2026年8月24日、44歳で天に召されました。7月下旬に発熱して入院され、肺炎が悪化し、8月中旬から危篤の状態となられました。お父様であるS兄と共に、教会員たちも回復を願い祈り続けましたが、回復はかなわず、神はY兄を御許へと招かれました。愛する息子を失われたS兄の悲しみを思う時、私たちは簡単に慰めの言葉を語ることができません。ただ、その悲しみの中にも主が共にいてくださることを祈り、共に御言葉に耳を傾けたいと思います。

 

■Y兄

今日、与えられた聖書箇所、ヨブ記とローマの信徒への手紙は8月31日に行われましたY兄の葬儀式にも与えられた御言葉です。今日は、Y兄を覚えると共に、それぞれの愛する方を覚えて集まったご家族と共に、もう一度、この御言葉から聴きたいと思います。はじめにY兄について少しお話しさせていただきます。ご家族の中では母M姉が最初に根津教会にいらっしゃり、S兄、Y兄も共に集われるようになりました。そして2005年のクリスマスにM姉が、2006年のイースターにS兄が、同年のペンテコステにY兄が洗礼をお受けになりました。こうしてご家族での教会生活が続いておりましたが、お渡しした式次第をご覧いただくと分かる通り、2011年にM姉が天に召されました。そのあとはS兄、Y兄のお二人で礼拝に出席され、S兄が車椅子生活になられて、別々に生活されるようになってからも、それぞれに礼拝を大切にしておられました。今年のペンテコステ礼拝5月24日にはお久しぶりにお二人がお揃いで出席されました。この時がお二人揃っての最後の礼拝になるとは思ってもおりませんでした。Y兄は1982年の8月24日にこの世での生を受け、ちょうど44歳の誕生日に地上の生涯を終えられました。若くして命を終えることとなりましたが、神がお決めになった時であり、この世の誕生という祝福された日に天での第二の誕生日を迎えることになったということは、決して偶然ではなく、これもまた神のご計画、神の祝福のうちにある証であります。誕生の日から最後の日まで、Y兄の命を知り、愛してくださった神がおられる。このことを私たちは信じております。その生涯の長さによって、神の愛の深さが測られることはないのです。次週、所沢で行われます墓前礼拝においてY兄の納骨式を執り行います。そこでも私たちは、死を超える主の約束に、この兄弟をお委ねいたします。

 

■ヨブの不条理

さて、先ほどのヨブ記、主人公であるヨブに突然、襲いかかる苦難が記されていました。ヨブは、神を畏れ、悪を避けて生きる、無垢で正しい人でした。ところが、そのヨブが、一日のうちに財産を失い、さらに子どもたちを失います。災いを知らせる者が、まだ話し終わらないうちに、次の知らせが届きます。悲しみを受け止める暇もなく、さらに悲しみが重なっていくのです。ヨブ記は、苦難というものをその人の罪や信仰の不足と結びつけて、簡単に説明しようとする私たちの考えを問い直すものであります。正しく生きていたら苦しまない、信仰があれば願いどおりになる。そのような仕組みで、人間の生涯を理解することはできないのです。私たちもまた、「なぜ、この人が」「なぜ、今なのか」と問わずにはいられない別れを経験します。長い闘病の末の別れもあれば、何の準備もできないまま迎える突然の別れもあります。これからという時に命を終える方もあります。たとえ長寿を全うされたと言われる年齢であっても、ご家族にとって、その方に代わる人はいません。十分に生きたのだから悲しまなくてよい、ということにはならないのです。また、Y兄のように、お父様を残して44歳という若さで召された、など・・・ご家族にとっては、神様、なぜですか?と問わずにはいられない不条理は数限りなくあります。そのような怒りにも似た悲しみや問いは愛する人を失った家族にとっては消し難いものです。ヨブもまた深く悲しみました。20節の御言葉にその思いが表されています。「衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して」とあります。衣を裂くというのは、激しい感情の動揺を表しています。自分の身に起きた出来事をなかなか受け止められない内面の悲痛さが現れています。髪を剃り落とすというのも、極度の悲しみや嘆きを表す行為でした。どうしようもない悲嘆に暮れた思いが示されています。愛する子どもたちを失った痛みはその身を引き裂くほどのものだったのです。そのヨブが地にひれ伏します。地にひれ伏すというのは、ヨブの神への敬意の表れです。悲しみ、絶望の中にあっても、神への敬意を失わずに受け止めようとするヨブの信仰がヨブを支え、そしてヨブは言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」ヨブ記を読み進めますと、ヨブは自分の生まれた日を呪い、神に問いかけ、自分の苦しみを激しく訴えます。神に語り続けるのです。ヨブは神を賛美する言葉だけでなく、嘆く言葉によっても神との関わりの中にとどまろうとするのです。私たちもまた同じように、祈り、賛美する時があり、そしてまた、嘆く時もあります。そのようにして神との関係に留まること、これがキリスト者としての務めであります。また、そのような者たちが共に祈りあう、支え合うのが教会であります。

 

■いのちは神により

ヨブの告白は、自分の命も、愛する者の命も、自分が所有し、思いどおりにできるものではないことを示しています。私たち人間の命は神によって与えられるものであります。主なる神が私たち人間を形づくり、そして神によって命の息が吹き入れられて私たちは生きるものとなりました。そしてまた、私たち人間は誰もが必ず死を迎えます。神によって吹き入れられた息が止まる時、私たちはこの世での生を終えるのです。医学の進歩によって確かに病は回復するようになりましたし、その技術は日々向上しています。しかし、そのような中にあっても、私たちの命は永遠無限ではありません。ヨブは自分に与えられているもの、自分の命も、子どもたちも、また財産も、全てが神から与えられたもの、神からの賜物であることを知っていました。命をくださるのも、そしてまた取り去るのも神のなせる業であるということをヨブははっきりと告白いたします。「主は与え、主は奪う。」こうして、悲しみを抱きつつも「主の御名はほめたたえられよ。」と告白する信仰があります。主イエスの福音を告げ知らせたパウロという使徒は、「わたしは弱いときにこそ強い」という言葉を第2コリント12章10節で語っていますが、この言葉は、ヨブと共通するものがあります。「弱さ」と「強さ」、正反対に思えるものでありますけれども、ヨブの苦難とパウロの告白を重ね合わせますと、聖書が示す「まことの強さ」が浮かび上がってきます。ヨブは無垢な正しい人であったとあり、またその自負も持っていましたけれども、理不尽な苦難によって、自らの無力さを実感し、限界、つまり弱さを経験します。「弱いときにこそ強い」と語ったパウロは病、持病を持っていたと言われています。そうした肉体的な弱さを取り除いて欲しいと主に祈りましたが、聞き届けられませんでした。両者とも自らの弱さを認め、神の圧倒的な主権の前にひれ伏した時、神のご計画を受け入れ、そこに神の力が働くのだということを知ったのです。神の恵みに支えられて生きる生き方は人を強くします。神の力が人に及ぶからであります。私たちが今日、覚えているすでに召された兄弟姉妹も一人残らず、神の御前にひれ伏し、神のご計画を受け入れ、神の絶対的な力を信じ、歩んだ方々であられます。時に弱さを覚え、時に苦しみを覚え、時に嘆き、悲しんだでありましょう。しかし、誰もが弱さの中にあるときこそ、神に支えられ、そのことを大いなる恵みとして受け取り、感謝を持って歩んだのであります。

 

■神の愛

パウロはその神の絶対的な恵み、神の愛を、今日の新約聖書、ローマの信徒への手紙8章31節から39節で語っています。ヨブは苦難にあって、神に見捨てられたのではないかと悩みましたけれども、パウロは言います「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」神は、神にとって何にも代え難い独り子である主イエス・キリストを私たちのために十字架の死に渡されました。このような究極の犠牲がすでに神によって払われたのです。最大の恵みである、御子主イエスの命を与えてくださった以上、私たちが歩む上で必要な支え、全てを惜しむはずがないのです。悲しみや苦しみの中にあるとき、神は聞いてくださらない、神に見捨てられたのではないか、という思いに捉われることがありますけれども、パウロはすでに成就した主イエスによる十字架の出来事を根拠として、神の愛は絶対的に変わらない、と力強く語るのです。悲しみや苦しみ、苦難や試練、今を生きる私たちにも必ずそれらはついてまわります。しかし、神はそのような私たちを見捨てることなく、私たちの弱さを否定なさらず、むしろその悲しみのただ中に共にいてくださるのです。私たちは自分の力では克服することのできない限界を抱えて生きています。その弱さを告白し、それを神の前に差し出すとき、主イエス・キリストの慰めと永遠の命への希望が私たちに注がれるのです。私たちはそれを支えとして日々、歩むことができます。神は完全なお方です。独り子である主イエスを十字架に差し出すほどに私たちを愛してくださっておられる神は、この地上の歩みだけではなく、死の先にある天の御国においても、すべての人々を最善の恵みで養い続けてくださっておられます。

 

■結び

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、

高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」最初に「死」が挙げられています。私たちの目には、死はすべてを断ち切る力のように見えます。もう話すことができない、もう触れることができない。その隔たりは、現実であり、深い痛みです。しかし、死にもできないことがあります。キリストによって示された神の愛を断ち切ることは、死にもできないのです。すでに召された方々は、神の愛の及ばない場所へ消えてしまったのではなく、神の愛のただ中に引き取られ、その御手のうちにあるのです。そして今を生きる私たちも同じ神の愛の中に留まっています。この地上での別れというのは、永遠の別れではなく、キリストの愛において結ばれ続けるひとときの隔たりに過ぎません。すでに天に召された兄弟姉妹はこの地上での歩みをまっとうされた方々です。その兄弟姉妹のこの地での歩みが神に守られたものであったこと、そして兄弟姉妹お一人お一人がそのことに信頼して歩まれたことを今日、改めて覚えたいと思います。兄弟姉妹の歩みをお支えくださった神に心から感謝し、今を生きる私たちも、目にみえる地上の苦しみや別れから、目に見えない神の永遠に変わることのない愛に目を向けたいと思います。私たちの罪の清算のために、十字架におかかりくださった主イエスの死が示しているものは、私たちへの限りない愛です。そして神が主イエスを三日目に甦りをさせてくださったことで、主イエスは死にも打ち勝たれました。ですから、神の愛、主イエス・キリストの恵みは死をも超えます。私たち、死すらも引き離すことのできないキリストの愛に信頼し、いつか天の御国でふたたびまみえるその時まで、この地における歩みを神に信頼し、神の愛、その恵みに支えられて歩んでまいりたいと祈り願うのであります。今日、共に礼拝をお捧げしておられるすべての方と共に歩みたいと願います。

 
 
 

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