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『すべての人の後になり』 2023年3月5日

説教題: 『すべての人の後になり』 聖書箇所: マルコによる福音書 9章30~37節 説教日: 2023年3月5日・受難節第二主日 説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

数回前の8章27節、ペトロが信仰を告白する、というところから、このマルコ福音書は第三幕に入ったと申し上げました。主イエスがお生まれになり、そして神の国の実現のためのお働きのことが第一幕、第二幕と記されており、そしてペトロの信仰告白に始まるこの第三幕は、主イエスが十字架への道を歩んでおられることが明らかにされていきます。この第三幕の間に主イエスは、3回、御自身の死と復活を予告されます。第三幕はその衝撃的な予告から始まっております。そして今日の御言葉9章30節において、主イエスはご自身の死と復活について話されます。第2回目の予告です。


■ガリラヤを通り過ぎて

今日の御言葉は30節、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。」という言葉から始まります。「そこを去って」と書かれているその場所は、8章27節までさかのぼってみなければなりません。主イエスは弟子たちを伴って、フィリポ・カイサリア地方の村々へお出かけになられていました。フィリポ・カイサリアとはガリラヤ湖より北側であります。そしてその後9章のはじめでは「高い山」に登られ、そしてそのふもとの村で汚れた霊につかれた子を癒されました。ですから、「そこを去って」の「そこ」とは、少年への癒しの御業をなされた村ということでありましょう。ガリラヤ湖の北側のどこかの村ということになります。そしてそこから「ガリラヤを通って行った」とだけ書かれています。ガリラヤからどこへ、なのか、ここでは明確には記されておりませんけれども、この第三幕はエルサレムへの道行きであると申しました。ですから、主イエスの目的地はエルサレムであって、ガリラヤはもはや通過点となったのです。ガリラヤはこれまで主イエスのホームグラウンドでありました。この場所を拠点として伝道活動をされました。ガリラヤのありとあらゆる町や村、どこへ行っても主イエスを取り囲む人々の姿が描かれてきました。しかし、今日の御言葉に示されているのは主イエスと弟子たちのみ。もはや人々のことは何も書かれず、ただただ主イエスと弟子たちにスポットがあてられております。

主イエスはこうおっしゃいました。31節です。「それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。』と言っておられたからである。」この部分を原文に沿って丁寧に訳しますと、「人の子は、人々の手に引き渡されて、殺され、三日の後に復活する」ということを弟子たちに話し、教えた。となります。8章31節で主イエスご自身が死と復活を弟子たちにお話になった時も、「教え始められた」となっております。つまり、弟子たちへの訓練、弟子たちへの教育が続いているのです。十字架へと向かわれる主イエスにとっては、それまでなさってきたような人々への癒しの御業の時は過ぎました。主イエスの限られた時間は弟子たちへと向けられています。


■「人々の手に」

主イエスはご自身がなされた死と復活の予告をなさったその1回目、8章31節と今日の2回目9章31節には、明らかな違いがあります。8章では、人の子、つまり主イエスは、長老、祭司長、律法学者、つまり、当時のユダヤ社会の指導者たちによって排斥されると語られました。しかし今日の9章では、「人々の手に引き渡され」となっています。主イエスを裁判にかけ、死刑にするのは、指導者たちによってではなく、人々の手によって殺される、と主イエスは言っておられるのです。判断を下す立場の者の手によるのではなく、人々、すなわち、「人間の」手に、弟子たち、あなたたちをも含む皆の手によって殺されるのだ、と主イエスはここで言われたのです。主イエスの命が「人の手に引き渡される」、それは父なる神が独り子を死に渡されるのであり、それが神の御心であると主イエスは言われました。このように私たちの救いの道は、私たちの罪が明らかになる主イエスの受難の道、犠牲の道なのです。そして弟子たちをもさきゆく主イエスにお従いして歩むことが求められていますが、弟子たちはそれを理解できないのです。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」とありますように、弟子たちは主イエスがお話になる受難の意味を明確に理解せず、理解することをむしろ恐れたのです。


■一番偉いのは誰か

さて、そうして一行はカファルナウムへと着きました。家についてから、というのはペトロの家でありましょう。ペトロの家を定宿にし、ペトロの姑が食事の世話をしてもてなしていたのでありました。さて、家につきましてから、主イエスは弟子たちにお尋ねになりました。「途中で何を議論していたのか。」彼らは、「途中で誰が一番偉いかと議論し合っていた」のでありました。弟子たちが議論しているその声は主イエスの耳にもちろん届いておりました。あえて主イエスはお尋ねになったのです。彼らは黙っていました。誰が一番偉いかを議論していたなんて、大人げないと思うかもしれません。しかし、彼らが議論していたのは、誰の身分が一番高いか、というようなことではなく、誰が主イエスに一番お仕えしているか、ということを議論していたと思うのです。例えばペトロは、自分が最初に主イエスに呼ばれて弟子になったのだと言ったでしょうし、他の者たちも「いやいや、時間の問題ではなく、あの時は自分が忠実にお仕えして・・・」というように競い合っていたのでありましょう。9章2節では主イエスが山へ登られた時、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて行かれたことが語られていました。その彼らの気持ちの中には、自分たちは主イエスに選ばれた弟子であり、麓に残っている弟子たちよりも偉いのだというような特権的な意識があったとしても不思議ではありません。また、残された弟子たちが汚れた霊に取りつかれた子供を癒せなかったというところから、「私ならできたのに」というような仲間内での競い合いが発端だったかもしれません。そのように考えてみますと、このような弟子たちの思いというのは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。


■すべての人の後になり

主イエスは座り、十二人を呼び寄せて言われました。この「座り」というのは、ラビ、つまり教師として居住まいを正してお教えになる時の姿勢です。主イエスはいずれこの世を去って行かれるのです。そのためには残される弟子たちの教育のための時間が大切だと考えておられるのです。そしてこう言われました。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」もし一番になりたいなら、後になりなさい、と言われました。後になるはイコール仕えるということになります。つまり、主イエスがおっしゃりたいのは、すべての人に仕える者になりなさい。ということです。もちろん、この趣旨は仕えることによって一目置かれ、それによってあの人は謙遜で偉い、と言われるようなことではありません。すべての人に仕えることが、主イエスに仕える、主イエスに従う者である、と言われているのです。


■子供の一人を受け入れる

さて「すべての人に仕える」とは具体的にはどのようにすることなのでしょう。おそらく主イエスを取り囲んで座った十二人の弟子たちも、そしてそれを今聞く私たちも実際には頭をひねるのではないでしょうか。そこで主イエスは36節で具体的に示されます。一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせました。そしてその子を抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」子供を「受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは子供を可愛がり、大切にするということではありません。現代の私たちが持つ「子供」のイメージは、少子化ということもありますし、双方のおじいちゃんおばあちゃんからも大切にされ、両親からも最大限の愛情を受けて育っている存在というのが一般的と言えるのではないでしょうか。しかし、当時のユダヤ社会では女性と子供は物の数に数えられておりませんでしたから、子供は一人前の価値ある存在とは認められていなかったのです。今でも、「子供の出る幕ではない」というように、大人の社会においては、時に排除される存在となることもあります。そのように子供は低い存在とされていました。主イエスはそのような「子供」を受け入れなさい、と言われたのです。子どもは可愛い反面、時にわがままであり、時にものの道理が通じず、子供を中心にすることは忍耐を必要とすることでもあります。授乳に始まり、おむつを替え、食事を与え・・・というように、子供は大人から何かをしてもらう、面倒を見てもらう存在なのです。しかし、主イエスはそのような子供、幼子とご自分とを同一視しておられます。そのような子供と共に生きる、受け入れることがわたしを受け入れることなのだ、と言われました。それは低く見られ、相手にされない存在と共に生きることであります。ですから、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」ということは、謙遜に人に仕えれば結局は人から尊敬されて一番になれるというような処世術の話ではなく、人より先、人より上に、というような思いを捨てて、受け入れがたいと思う人を受け入れ、共に歩みがたい人と共に歩みなさいという教えです。ですからそれはとても難しい教えであると言えるのです。そしてそれは主イエスにお従いして歩むことであります。主イエスと同じ道を歩むということです。主イエスはそれを十二人の弟子たちに視覚的に示されたのです。「彼らの真ん中に立たせ」という言葉はそういうことでありましょう。彼らの中心に子供を立たせた。つまりそれは彼らの中心に彼らの目に見えるやり方で主イエスご自身を置かれたのです。

エルサレムは近づいています。主イエスが弟子たちと共にいられる時間はそうたくさん残されてはいません。主イエスが歩まれる神の御心に従った道、十字架への道を弟子たちはまだ理解していません。


■結び

フィリピの信徒への手紙2章6節~8節、新約聖書363頁をお開きになってください。お読みします。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」誰にでも、「自分が」という思いはあるでしょう。「我こそは」と自分の利益を求めること、それは個人個人にとどまらず、社会において、国vs国において起こっていることでしょう。世界においてそれは平和へと導いているでしょうか。間違いなく、競争へ、対立へ、戦争へと歩む道であります。それと正反対の生き方をされたお方、それが主イエスであられます。主イエスは人間の最低のところに立たれました。一番ビリ、一番最後の位置に行かれました。それが主イエスの十字架の死であります。自分の利益を求めている者からみたら、主イエスの十字架の死は、おそらく馬鹿馬鹿しいくだらない死でありましょう。しかし、父なる神はそのような道を歩んだ独り子イエスをよみがえらせ、そして父なる神の右に挙げられたのです。神の栄光を指し示す主イエスがそこにおられます。主イエスがご自身で示して下さったそのような「すべての人の後になる」生き方を、弟子たちと同じように教えられている私たちは幸いであります。神の多いなる恵みの内にある私たちは、自分の偉さを自分で量り続ける愚かさから主イエスによって解き放たれるのです。


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