『この舟は沈まない』 2025年5月4日
- NEDU Church
- 5月5日
- 読了時間: 9分
説教題: 『この舟は沈まない』
聖書箇所: 旧約聖書 創世記1:3―9
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:23-27
説教日: 2025年5月4日・復活節第3主日
説教:大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日与えられた御言葉は8章23節からでありますが、この箇所は先週からの続きと言える所であります。先週の箇所の小見出しを見ますと、「弟子の覚悟」とあります。主イエスは大勢の取り巻いている群衆から離れて、舟に乗り、向こう岸へと行くように命じられた。とありました。ただ素晴らしい教えや癒しの御業を見聞きしてついてくる大勢の群衆たちの中から、私に本当に従ってくるのは誰であるのかということが問われているのであり、そして招きである、とお話しいたしました。そして今日の箇所となるわけです。主イエスが舟に乗り込まれると弟子たちも従った。とありますように、弟子たちは主イエスの招きに従って、陸地から離れて、主イエスと同じ舟に乗り込んだのでした。
■激しい嵐の中で
さて、直前には、「あなたにお従いします」と申し出ながらも去っていった律法学者とのやりとりを弟子たちは聞いていたことでしょう。その上で、自分は・・・という思いで主イエスに従って同じ船に乗ったのでありましょう。しかしながら、陸から離れたのち、湖に激しい嵐が起こって、舟は波にのまれそうになったと聖書は記しています。乗り込んだ弟子たちの中には、シモン・ペトロ、アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネもいました。彼らはご存知の通りガリラヤ湖の漁師でありましたから、ガリラヤ湖の様子は理解しているはずであります。ガリラヤ湖の写真を見ますと、その周囲では季節ごとに数々の花が咲き誇る穏やかな湖に見えますが、周りは山に取り囲まれており、日没後の気温の変化で突風が山から吹き下ろしてくるそうです。彼ら漁師たちはこの突風のことを当然知っておりましたし、またその対処法も熟知していたはずでありましたが、そのようなプロの漁師たちを持ってしてもどうにもできないほどの激しい嵐に襲われたのでありましょう。また、その激しさを知っているだけに弟子たちは恐れ慄いたのでしょう。
ここでマタイは「激しい嵐」と記しています。この出来事は平行箇所である、マルコとルカにも記されておりますけれども、マタイだけが違う言葉を使っています。マルコとルカは突風、英語ではwindstormです。マタイだけが嵐と訳していますが、元の言葉を見ますと、嵐というよりは、地震と訳すのが正確な言葉です。地震、つまり、地が揺らぐ。大丈夫と思っていたものが揺らぐのです。それによって私たち自身も動揺し、揺り動かされます。弟子たちも同様でありました。さてそのように弟子たちが狼狽する中、主イエスはどうしておられたかといえば、「眠っておられた」とあります。主イエスがどうして揺れる舟の中で眠っていらしたのか。主イエスは常に父なる神にご自身を委ねておられました。主イエスは知っておられるのです。この地を造られたお方が誰なのか。この地を確かなものとし、祝福してくださったのは誰であるのか。地の基が揺れ動くと言っても、この地を据えられたのは誰であるのか。湖の波が舟をのみこむほどに大きくなったとしても、その湖を造られたのは誰なのか。その全てを造り、そして支配しておられるのは父なる神であるということを主イエスの穏やかな眠りは示しておられるのです。弟子たちは、「主よ、助けてください。おぼれそうです。」と申しました。この「おぼれそう」と訳されている言葉は、実はもっと強い言葉で、「滅ぼされそうです」ということです。しかし、この世界を支配しているのは滅びの神ではなく、創造の神、いのちの神なのです。ですから、主イエスが枕しておられる、それはこの嵐は嵐ではない、この大荒れの湖を支配しておられるのは神であられる、だから、滅びない、と言っておられるのです。
■信仰の薄い者たち
「主よ、助けてください。おぼれそうです。」と言った弟子たちに、主イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われました。さて、信仰が薄いとはどういうことでしょうか。なぜ、主イエスはそのように言われたのでしょうか。弟子たちの心の動き、弟子たちの心の中をのぞいてみたいと思うのです。弟子たちの「主よ、助けてください。おぼれそうです。」という言葉を言い換えますと、「主よ、なんとかしてください。私たちをお見捨てになるのですか」というような思いが感じられます。つまり、こんなに大変な時に、主イエスは泰然自若として眠っておられる。自分たちはこうしてなんとかしようと思っているのに、主イエスは何もしてくださらない、そのような思いを持っていたということです。元々が18節にありますように向こう岸へ行くように命じられたのは主イエスであられましたし、23節に記されるように主イエスが乗り込まれて、弟子たちが従ったのでした。去っていった律法学者と自分とは違う、自分は主イエスに従う者である、という自負を持って舟に乗り込んだということでもありました。しかし、その舟が激しい嵐で沈みそうになっている。主イエスがお決めになったことなのに、このような目に遭うなんて、という思いが弟子たちに感じられます。あなたに従ってきたのに、このような苦しみの中に置かれる、主イエスはこのような時に救ってくださらない。このような苛立ちが弟子たちにみられますけれども、これはすっぽりそのまま私たちにも当てはまるのではないでしょうか。私たちも穏やかな信仰生活を送っているときは、主イエスを信じ、従い、依り頼むということを口では言いながら、いざ、苦難が襲ってきたとき、つまり激しい嵐の中に置かれたとき、私がこんなに大変なのに、主イエスは何もしてくださらない、神は応えて下さらない、といともあっさりと思い、右往左往し、そして神に委ねず、ここまで主に従ってきたはずなのに、と思ったりする。主イエスに対して、何とか責任をとってもらいたい、とさえ思うのです。このような思いが、「信仰の薄さ」という主イエスのお言葉であります。「信仰が薄い」、この同じ言葉が6章30節にも記されていました。その時にも申しましたけれども、信仰が薄い、とは小さい信仰ということでありました。神を信頼せず、自分の思いで神を判断し、神の力をみくびって、神を小さくしているということなのです。
■神の偉大さ
そのように神をこの時の弟子たちも神を疑いました。そのような彼らに、主イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われ、そして風と湖をお叱りになり、嵐を鎮められました。この主イエスの弟子たちへのお言葉は、弟子たちへの叱責の言葉ではありません。そんな小さな信仰ではダメ、もっと大きな信仰を持て、という言葉ではありません。信仰は小さくともある、決してないわけではないのです。そして今日の箇所には神と人間との大きな対比が示されています。「激しい嵐」と「小さな信仰」です。この「激しい」という言葉は、ギリシア語では「メガ」という言葉が使われているのですが、ご存知の通り、パソコン用語としては、メガバイトなどというように使われています。キロバイトの1000倍・・・と言われても、実質的なボリュームがわからないので、なんとも言えませんが、とにかく非常に大きな、という意味です。食べ物でもメガ盛りなんていう言葉がありますように、最大級の、という意味になるわけです。この最大級の嵐を起こすのは神であられますから、つまりここでは神の大きさが表されています。一方で、小さな信仰、それは私たち人間のことを言っているわけですから、神の大きさに対する人間の小ささ、この当たり前とも言えることをマタイはこの二つの言葉で表しているのです。ですから、もっと信仰を大きくしなければダメなのではなくて、神の大きさを知れということなのです。
■教会は舟
教会は昔から舟によく例えられてきました。舟は不安定な乗り物であると言えましょう。もちろん、動いていることさえわからないほど静かに穏やかに動いていく豪華客船もありますけれども、それとて海が荒れればたちまち揺さぶられるわけです。主イエスと共に歩んできたこの弟子たちも、そしてその後の共同体、教会もこの世にあって、常に揺さぶられ、波に呑まれてしまうかのように翻弄され、そして転覆の不安と危機を乗り越えて、進んできました。常にその先頭に立っておられるのが主イエスであられるのだ、ということを心に深く命じて乗り込んでも、私たちは揺さぶられる、動揺する。小さい信仰しか持ち得ないのです。それで良いのではないでしょうか。肝心なことは、「主よ、助けてください。」と私たちは祈り求めることができるということです。それは「主よ、私を救ってください。」「主よ、我らを救いたまえ」という言葉であり、それは私たちの祈りの原型です。それが教会の生活であり、礼拝であり、それぞれの信仰の原点なのです。
■この方はどういう方なのか
今日の御言葉の最後のところ、そして主イエスが「起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった。」続く27節「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか。』」マタイはこう記しています。さて、ちょっと不思議な表現です。「人々は驚いて」とあります、「人々」とは誰を指すのでしょう?場所はガリラヤ湖の岸から離れた湖の上。ここにいるのは主イエスと弟子たちだけでありました。この部分の英語訳などをみますと、They、つまり彼らは、と訳されていますが、原文では、はっきりと「人々」を表す言葉がつけられています。弟子たちのことを表すのであれば、人々というのは少々不自然で、まさに「彼らはとか弟子たちは驚いた」とか記せば良いのですけれども、それ以上の言葉が添えられているのです。少々回りくどくなりましたけれども、マタイは明らかに、主イエスの権威ある御業に対して、「いったい、この方はどういう方なのだろう。」という驚きと疑問を、この福音書を読む人々全てに投げかけているということなのです。この物語は、この時代のその場にいた人たちだけでなく、今、この福音書を読む私たちにも、マタイは驚きを求めているのです。主イエス、このお方はどのようなお方なのか、という驚き、私たちの信仰もそのような驚きから始まったのではなかったでしょうか。
■結び
信仰とは、私たちの頑張りで嵐を乗り越えられるか、耐えられるか、というようなことでもなく、そこで立ちすくんでしまうことがダメなのでもなく、ただそこに主イエスのお姿をはっきりと見ることができるか、ということではないでしょうか。この舟の中で主イエスは眠っておられた。このことが何を意味するのか、それを驚きを持ってみることができるかということです。神は生きて働いておられる、そして主イエスは父なる神に委ねておられる。この眠りがどれだけ確かな眠りであるかということを知ることではないでしょうか。主にある平安というのはそういうことであろうと思います。私たちはこの主イエスの眠りに支えられて、今、生きているのです。本来、滅びでしかなかった私たちの命、私たちの舟は、主イエスが共に乗ってくださっているのですから、決して沈むことはない。その確信を私たちは与えられているのです。主とともに眠り、主と共に生きる。それが私たちに与えられている大いなる恵みであります。感謝いたします。
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