説教題: 『いと高き方の力』
聖書箇所: ルカによる福音書 1章26~38節
説教日: 2022年12月4日・待降節第二主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
待降節、アドヴェントの第2週目を迎えました。2本目のろうそくに火が灯されました。先週、灯されるろうそくそれぞれには名前と意味があるとお話しいたしました。この2本目のろうそくは「天使のキャンドル」という名前がついています。今、聖書を読んでいただきましたように、天使ガブリエルがガリラヤの田舎町ナザレにいるマリアのところに遣わされ、マリアに主イエスを身ごもることを告げたのです。この天使ガブリエルはザカリアに、彼の妻のエリザベトが身ごもり、そして洗礼者ヨハネの母となることをも告げました。この上ない良き知らせをエリザベトに、そしてマリアに携えてきた天使、それがガブリエルでした。
ろうそくの意味は「平和」です。マリアに与えられるイエスという男の子はいと高き方の子であり、そして平和の君として与えられるからです。
■二人の母と子
今日の御言葉は「六か月目に」という言葉から始まります。いつから六か月なのかといいますと、先週ともに読みました箇所と繋がっております。長い間、子供を授かることのなかったエリザベトに子供が与えられ、「エリザベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」と24節に書かれております。その次の月、天使ガブリエルがガリラヤの田舎町ナザレにいるマリアのところに遣わされ、それが六か月目なのです。前回もお話しました通り、このヨハネとイエス、エリザベトとマリア、この2組の母と子の物語は半年の時をずらして、追うようにして対応しています。後に洗礼者ヨハネは主イエスの先駆けとして、その道を備える者として歩むことになるわけですが、その誕生の前から、ヨハネが主イエスの備えとしての意味をもっていたことをルカははっきりと意識して物語を語っているのです。ですからザカリアにヨハネの誕生が伝えられた場面と、マリアに主イエスの誕生が告げられた場面はきっちりと重なります。現れた天使にザカリアは不安を覚えました。また、マリアも戸惑うのです。そんな彼らに天使は告げます。「あなたは恵まれた人である。恐れるな」と。しかし、そのような言葉を聞いても、ザカリアもマリアも「どうしてそのようなことがありえましょうか」という思いを語るのです。天使は言います。37節です。「神にはできないことは何一つない。」神の御心であれば、必ず実現することを、天使はザカリアにもマリアにも告げました。ルカは神様の周到な救いの計画の実現をそのようにして描き出しているのです。
■ヨセフ
主イエスの母となるマリア、彼女はガリラヤの田舎町ナザレに住んでいました。彼女はヨセフのいいなずけでした。ヨセフはダビデ家の血を引く者でありました。旧約聖書サムエル記下7章16節には預言者ナタンの預言が書かれています。ナタンはこう言いました。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに固く据えられる。」ここで言われている「あなた」とはダビデのこと。ダビデ家、ダビデ王国は永遠に続くと預言されました。しかし、このダビデ王国はダビデの息子ソロモンの時代の後、南北に分裂し、そして北王国が滅亡し、そして南のユダ王国も紀元前586年に滅びてしまいます。それにもかかわらず、イスラエルの民はナタンの預言は必ず実現すると信じていました。そしてイスラエルの民の救いも実現すると待ち望んでいたのです。この預言の時から、すでに500年経っていたヨセフとマリアの時代、彼ら自身、ヨセフ自身、まさかその預言が自分のもとで実現するとは思っていなかったでしょうが、ダビデ家への期待は決して途絶えてはいませんでした。
■マリア
さて、いいなずけであるマリア、彼女は当時12・13歳ぐらいであったと言われています。現代の私達の感覚からしますと早すぎるように思いますが、当時のユダヤ社会ではむしろ普通のことでありました。マリアはナザレという小さな町に住む、何の変哲もない娘でありました。なぜ、マリアが選ばれたのか、それはまさに神様のご計画としかいいようがありません。一方的な神の選びによって、この一人の娘が救い主イエス・キリストの母となるのです。神の救いのご計画というのは、本当に人間の常識を超えた形で実現することを知らされます。想像を超えた、全く思ってもいなかったことが、こうして起こり、マリアは突然に、神様のお考えになる壮大な救いの計画の中心に置かれることになりました。
天使ガブリエルはマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」と訳されている言葉は、そのまま訳しますと「喜びなさい。」です。こんにちは、とか、ごきげんよう、というような挨拶の言葉としても用いられている言葉ですが、ここでは「あなたは恵まれた方です。主があなたと共におられる。」という宣言が告げられる時の言葉と結びついていますから、おめでとう!と訳すのがふさわしいのでしょう。しかし、それを言われたマリアは何が「おめでとう」なのか、戸惑うばかりです。29節にはマリアがその言葉を聞いて、戸惑い、この挨拶は何のことか、考え込んだ、と書かれています。天使はマリアに言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
天使はここまで一気に「すばらしい知らせ」を告げました。一つずつ繰り返しますと、マリアが神から選ばれ、恵みをいただいたこと、身ごもって男の子を産むこと、イエスを名付けられるその子は偉大な人になること、いと高き方の子と言われること、ダビデの王座を継ぐものとされること、永遠にヤコブの家を治め、そしてその支配は終わることがない、というこれ以上にない驚くべきすばらしい知らせでありました。
さてここで皆様、今、マリアになってください。マリアの年齢とはあまりに離れているわ、と思われる方は、マリアの母でもよいです、祖母でもよいです。自分の娘マリアが、自分の愛する孫マリアが、これからヨセフと結婚しようとしているマリアが、今、このような「素晴らしい」知らせを天使から告げられました。さて、それを聞いて、どう思われますでしょうか。「おめでとう、マリア!」「なんてすばらしいこと!」と素直に言えますでしょうか。男性の方々もお願いします、マリアの父、マリアの祖父になってください。「それはそれはマリア、すばらしいことだ!」そのように言えますでしょうか。
■戸惑い
私を含めまして、おそらくほとんど多くの方々が、「えっ?!ちょっと待ってください」そのどこがすばらしい知らせなのですか。私マリアは、娘マリアは、孫のマリアは、身ごもって男の子を産むと言われましても、まだ未婚であり、これからヨセフと夫婦になるのですから、それはちょっと困ったことでありまして・・・普通の結婚をして、普通に幸せであれば・・・与えられる子供は偉大な人とならなくとも、ましてや、世を治める者となるなど、思いもつかないことでして・・・できればマリアでなく別の方を選んでいただけませんでしょうか。そのように思われるのではないでしょうか。
今では未婚のまま母になる方は多くおられます。それでも当事者は、実際には簡単なことではないでしょうし、それぞれに理由、事情あっての決断をされてのことでありましょう。ましてや時代は2千年前、女性は結婚するまで純潔であるのが当然であり、それ以外は姦淫の罪を犯した者として石打ちの刑に処せられたのでありました。
マリアも戸惑った、どうしよう?と思ったに違いないのです。色々なことが頭の中を渦巻きます。ヨセフは理解してくれるだろうか?父や母には何と言ったらよいのだろうか?村の人々は私を処刑するとは言わないだろうか?神からの恵みって何だろうか?私が子どもを産む?そう決められている?イエスという名前も決められている、そしてその子は偉大な人になる・・・私が子どもを産む、その子の母になる・・・私が?私はナザレという村の平凡な家の娘で、平凡な暮らしをしてきただけなのに、どうして私が?そう思いました。
ですから、マリアは言います、「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」マリアは恐れました。渦巻く不安、さまざまな思い、何よりもマリアは自分の人生が大きく変わろうとしている事へ大きな不安を覚えたのです。ヨセフと結婚し、それから子供を産み、平凡な家族として暮らしていく生活を思い描いていたに違いありません。それが大きく根底から覆される、そのような不安と怖れを抱いたのです。
■神にできないことはない
マリアの意志や計画に反して、神様はマリアの人生に大きく介入されました。男の人と関わることなく、聖霊によって身ごもり、男の子を産む、ということは、人間にできることではありません。人間の可能性の外にあることです。ただただ、神がマリアを選び、マリアを用いるようお決めになったということです。神はそのようにして旧約の時代から選びをなさってきました。モーセにも、ヨシュアにも「恐れるな、私が共にいる」と主は言われました。主の選びの道に歩み出そうとする時、人はどうしても恐れます。それは自分の想像を大きく超えるものだからです。想定外だからです。しかし、神は言われるのです「恐れるな、私は共にいる。」そしてマリアの支えとなるように、神はエリザベトを備えておられました。ヨハネが主イエスの道備えとされたように、母エリザベトはマリアの道備えとして示されるのです。天使ガブリエルは言うのです。36節です。「あなたの親類のエリザベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」マリアとエリザベトは親戚であるということも示されています。ですから、マリアはエリザベトが子どもを授からないままに、年を取っている事も親戚でありますから知っていたのでしょう。神様の具体的な御業がマリアに告げられます。六か月ということは、もうお腹も大きくなり、誰の目にも妊娠していることがわかるほどになっている。神様の力が働くと、このようなことが実現するのだと告げられました。そして37節にはこうあります。「神にできないことは何一つない。」神は全能であります。その通りです。しかし、ここで原文に忠実に訳しますとこうなります。「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではない。」原文には「言葉」という意味の単語が入っております。神には実現できない言葉はない。神の言葉はすべて実現する。神が語られた御言葉は必ず実現する。と言っているのです。それを聞いてマリアは言うのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」マリアが信じ、受け入れたのは、神様はなんでもおできになるという一般的な真理ではなく、語られた御言葉を必ず実現なさる。私に対して語られた御言葉も実現してくださる、ということです。神の全能とはそういう意味です。神様が天使を通じて、マリアに言われた最初の言葉は「喜びなさい」でした。その御言葉は必ず実現する、神様が告げてくださった喜びは、必ず自分に与えられる、マリアはそのことを信じました。ですから、様々に渦巻く不安から解き放たれて「喜び」へと変えられたのです。
■結び
「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。」旧約聖書ミカ書5章1節。主イエスがお生まれになる7百数十年前に預言者ミカはこうして神の言葉を告げています。
神の言葉は必ず実現する。そして私たちに主イエスを与えてくださったのです。それはさらに言えば、私たちの罪の清算のために、十字架への道をお定めになって人として与えてくださったのです。そして更には死からの復活によって、永遠の命の希望も与えてくださいました。神にできないことはない。神の言葉は必ず実現する。喜びなさい。いと高き方の力はこうしてマリアに示され、今、私達にも示されています。
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