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『ありあまるパンと魚』 2022年10月30日

説教題: 『ありあまるパンと魚』 聖書箇所: マルコによる福音書 6章30~44節 説教日: 2022年10月30日・降誕前第八主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日の「五千人に食べ物を与える」、「五千人の供食」と言われるこの箇所は、聖書にあまり親しんでいらっしゃらないかたでも聞いたことがあるというくらい有名な箇所なのではないでしょうか。新約聖書には4つの福音書がありますが、この箇所は4つすべての福音書に記されている出来事です。それだけ大きな意味を持っていると言えるでしょう。五つのパンと二匹の魚、これだけのもので五千人もの人々の空腹を満たした奇跡。そこだけをとりあげてみますと、たしかにそんなことはありえないし、信じられない・・・と思える出来事でありましょう。しかし、その箇所に示されている意味を知るには、その前、もしくはその後に書かれていること、そのつながりが大切なのです。私たちは、このマルコによる福音書をはじめから丁寧に読み進めてまいりました。礼拝において、講解説教と言われるものは聖書箇所を順に読み進めていくことであります。この講解説教の意味、そして良さはなんであろうか、と考えますと、それはそのつながりを辿っていくことができることだと思っています。この五千人の供食もここだけを読むのではなく、その前とのつながりを知る、それが講解説教の醍醐味であるというと少し大袈裟かもしれませんが、大きく意味のあることであり、そして聖書はそれだけ深く丁寧に読むべきものであると思います。


■使徒たちの高揚

さて、今日の御言葉の始まり30節にはこう書かれています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まってきて、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」これは何を表しているかと言いますと、前々回とのつながりを見なければなりません。前回は洗礼者ヨハネの死のことが語られておりました。インパクトの強い出来事でありますから、大きくため息をつきたくなるような、そんな箇所であり、それゆえにその前は何が書かれていたかはあまり記憶に残っていないのではないでしょうか。前々回の6章6節後半から13節に何が書かれていたかと言いますと、「十二人を派遣する」となっておりました。主イエスが十二人を二人一組にされて、宣教の業に送り出しました。彼らは出かけて行って悔い改めさせるために御言葉を語り、そして多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒したのでした。30節にあります「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のは、それはそのあちらこちらでの宣教の成果、それを主イエスに残らず報告したのです。残らず報告した、と言う言葉から察するに、使徒たちの興奮と驚きが感じられます。癒しの御業を行うことができたこと、悪霊を追い出すことができたこと、自分たちの語る御言葉に耳を傾けてくれる人が多くいたこと、それらの素晴らしい体験を一つ残らず、すべて主イエスに報告したい、「師よ、聞いてください。」と堰を切ったように話す様子が感じられます。


■人里離れた所で

そのような弟子たちに、主イエスはこう言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」このように主イエスから言われますと、私たちは、「よく頑張ってきた、お疲れ様、休憩しなさい。」と言う意味に理解するのが普通かもしれませんけれども、実は少しニュアンスは違います。マルコ福音書1章35節に、主イエスが人里離れた所へ」行かれたシーンがありました。悪霊にものを言うことを許さず、多くの病人を癒した次の朝早くまだ暗いうちに、主イエスは人里離れたところに行って、祈っておられたのでした。父なる神との交わりのためでありました。「休みなさい」と訳されておりますこの言葉は、何かを中断させる、と言う意味を持っています。ですから、別の表現をいたしますと、「あなたがただけで人里離れた所へいって、そんなに興奮しないで、頭を冷やしてきなさい。」という意味合いにも訳せる言葉です。弟子たちは、成果を上げて戻ってきたことで、高揚感で一杯でした。彼らはそのような順調な働きが自分の力でできたように思えていたのです。神に遣わされ、彼らの働きは神の御手の中であるにもかかわらず、彼らは自分の成果であると勘違いし始めていました。そのような時、彼らに必要なのは、心も体も休めて、その働きを止めて、人々から離れて、そして神と向き合い、神の御心を問うこと、祈ることである、と主イエスは思われ、そして言われた言葉なのです。

じっくりと落ち着いて祈りの時間をとる事は、難しいということを私たちは知っています。何かが心を捉えている時、心煩い、心乱れて落ち着かない、ということよりも、逆に心浮き立つ時の方が、神様のみ心を問う、神の前に鎮まる時間をとるということが難しいものなのです。順調に進んでいる時こそ、私たちは神様を忘れてしまうのです。


■飼い主のいない羊

弟子たち、そして主イエスは舟に乗り、寂しいところへ行ったのでしたが、多くの人々は一行が出かけて行くのを見て、方々の町々から先回りしてその地に押し寄せたのでした。主イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になりました。そしてその群衆の様子を「飼い主のいない羊」のようだと思われたのでした。そして「深く憐れみ」と書かれています。以前にもお話しいたしましたが、この「深く憐れみ」と言う言葉は主イエスにしか使われない言葉です。自らの身体、内臓がちぎれるような、と言う意味の言葉です。主イエスは大勢の群衆が飼い主のいない羊のようだと思われ、痛みを覚えられたのです。

羊は弱い生き物です。有名な詩編23編に示されているように、羊飼いによって、羊は緑の野に導かれ、青草、水を与えられます。自ら草を探すことはできず、水も得ることはできません。羊飼いがいなければ、狼などの獣の脅威に怯えて立ち往生するばかりなのです。

主イエスは大勢の群衆をそのような羊のようだと思われ、色々教え始められたのでした。主イエスは神の国を宣べ伝えておられます。人々が悔い改めて、神の支配の中に生きること、それを望んでおられ、それは神の国、神の支配のうちに生きることです。私たち人間は、羊と同じです。弱い存在であり、本来、自分だけでは生きられない存在なのです。緑の野に導かれなければ、どこに行ったらよいかわからず、弱り果て、滅びへと向かうそのような存在なのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」主イエスはその宣教の始まりから、このように教えておられます。1章14節の御言葉です。「わたしがあなたがたの飼い主、羊飼いである。わたしがあなたがたを養う。だから、わたしを信じなさい。」主イエスはこのように大勢の群衆に語られました。


■「自分たちにはできません」

主イエスは時のたつのも忘れて、群衆にお話され、そして群衆たちも耳を傾けていました。「時がだいぶ経って」弟子たちは、ここは人里離れたところなので、大勢の群衆の食事のことが気になり始めました。もともと、弟子たちは食事をする暇もなかったのですから、弟子たちもお腹がすいていたのでしょう。「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」と主イエスに言ったのです。しかし、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」とお答えになりました。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか。」と言いました。主イエスへの非難と不満に満ちた言い方です。1デナリオンは当時の一日の賃金に相当するそうです。わかりやすく一日の日当1万円といたしましょう、200デナリオンですから、200万円分ものパンを自分たちが買ってくるのですか、そもそもそのようなお金もないのです・・・という弟子たちの声です。大勢の群衆、44節には「パンを食べた人は男が五千人であった。」と書かれておりますから、実際問題、これだけの人数の食事をすぐに用意するということは無茶な話です。男が五千人と書かれており、当時のユダヤ人は女性やこどもは人数に数えられておりませんでしたから、実際にはもっと多くの人がいたことでしょう。弟子たちは、「先生、それは無理な相談です、自分たちにはできません。」と言ったのでした。

しかし、今日の御言葉の始まりで、弟子たちは何を主イエスに報告したのでしたでしょうか。「さて、使徒たちはイエスのところに集まってきて、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」悪霊を追い出し、病を癒す、そのような本来、自分たちの力ではできないことをしてきたのではなかったでしょうか。それは神の御業です。主イエスに依り頼むことによって与えられるものであります。主イエスに選ばれ、主イエスによって権能を授けられ、主イエスによって派遣された弟子たちは、主イエスに依り頼むことによって神の力が働き、癒しの御業がなされることを体験してきたのでした。しかし、彼らはいつの間にか、それを成したのは神ではなく、自分たち、自分に力があると思っていたのです。そもそも今日の御言葉の始まりから、弟子たちは既にそのように思っていたのです。悪霊を追い出すことができたとき、病を癒すことができたとき、「主イエスの権能によって、悪霊は出ていきなさい、病が癒されますように、どうか主よ、その力を私にお与えください。」と弟子たちは祈ったはずなのです。しかし、それが可能となった時、それが神による力によるものであることを忘れて、自分の力であるように思うようになったのです。

この五千人もの人々のために、彼らがすべきことは、神への祈り、神へ問いかけることでした。「たくさんの羊たちが食べるものを求めています。このままではこの群れは弱ってしまいます。飼い主である主イエスと共に、私たちは何をなすべきでしょうか。神よ、あなたはなんでもおできになる方です。彼らが満ち足りるように、どうか主よ、私たちを用いてください。あなたにお委ねいたします。」と祈るべきでありました。しかし、彼らは、お金もない、時間もない、自分たちの力ではできない、と言ったのです。弟子の選びは、彼らの能力によってなされたものではありません。ただ主イエスが、「あなたを用いよう。」とおっしゃって召され、働きに出してくださるのです。そして必要な力を与えてくださり、行うことができるのです。主イエスのご命令に、「その働きがなされるよう、わたしに賜物をお与えください。あなたにお委ねいたします。」と祈ればよいのです。


■パンと魚

主イエスは「パンはいくつあるのか。見てきなさい。」と38節で言われました。弟子たちが見てみますと、パンが5つ、魚が2つでした。主イエスは弟子たちに命じて、人々を組にわけて、そして青草の上に座らせるようにお命じになりました。百人、五十人ずつまとまって腰を下ろしました。ばらばらに広がっていた羊たちが、主イエスという羊飼いの元に集められ、青草に導かれて養われる、そのようなイメージが重なります。

そして、主イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も分配されました。そしてそれは男だけで五千人、女性や子供を入れたら途方もない数の人々が満腹になったという奇跡が起こりました。

はじめにあった5つのパンと2匹の魚は、そのパンくずと魚の残りで12の籠にいっぱいになったというのです。

実は、多くの人たちは自分の食べ物を少しはもっていて、主イエスと弟子たちが少ない食べ物を分け与える姿を見て、自分の持っていたものをこっそりかごに入れたので、結果的に籠がいっぱいになったのだ、というような合理的な説明もなされてきました。少しずつの共にシェアするという気持ちが、皆を満たすのだ、というような倫理的な教訓のように捉えられることもあります。しかし、マルコがここで語りたかったことはそのようなことではありません。

私たちが注目すべきこと、信じるべきことは、パンが増えることを信じるのではなく、そのような御業を行うお方、主イエスを信じるということです。天を仰いで、祈られる主イエスの祝福に与ることを喜びとする、ということです。


■結び

主イエスは「弟子たちに渡しては配られ」とあるように、弟子たちを用いて、弟子たちの手から人々が満たされました。「自分たちにはできません」と言った、その弟子たちでありました。彼らが用意できたものは5つのパンと2匹の魚、到底、五千人を満たすことのできないちっぽけなものでしたが、主イエスが天を仰いで祈りを捧げ、つまり主イエスの祝福が満ちると、弟子たちが想像もつかないほど、驚くべき豊かな恵みとなり、それは有り余るものとなったのです。飼い主のいない羊たちに対する主イエスの憐れみによって、弟子たちの手から食べ物を与えられ、そして主イエスという羊飼いに養われる群れとなりました。12人の弟子たちによって配られたパンくずと魚の残りは、12の籠に溢れるばかりになったのです。12とは神の民イスラエルの部族を表しています。12人の弟子たちによって、新しいイスラエル、新しい神の民が溢れるばかりになることを表しているのです。

主イエスは弟子たちと同じように、私たちをも用いてくださいます。私たちの持てるものはわずかばかりですが、主に委ね、主イエスの憐れみによって、私たちは主イエスの恵みの御業を宣べ伝える働きを成す者へと変えられるのです。たとえそれが小さな執り成しの祈りであったとしても、それは恵みの御業として、主の働きの中に加えられていくのです。それはまさに奇跡としか言えない主の救いの御業であります。

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