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『あなたはメシア』 2023年2月5日

説教題: 『あなたはメシア』  聖書箇所: マルコによる福音書 8章27~30節 説教日: 2023年2月5日・降誕節第七主日 説教: 大石 茉莉

■はじめに

マルコによる福音書は全部で16章です。現在、8章ですから、ちょうど半分のところまでまいりました。そして今日の短い27節から30節という4節は分量的な折り返し地点というだけでなく、内容としてもターニングポイントとなる大事な場面が記されている箇所です。その大事な場面とは、小見出しにも書かれていますように、弟子のペトロが、主イエスこそメシア、主イエスこそ救い主、と信仰を言い表した、という場面であります。今日はこの30節で区切りましたが、その後の31節からの小見出しに「イエス、死と復活を予告する」とありますように、この後、主イエスご自身がご自分の死と復活を予告されます。この二つの大きな場面をもって、マルコ福音書は新たな部分へと進むことになります。福音書は大きくわけますと、主イエスがお生まれになったことが第一幕、神の国の実現のための主イエスのお働きが第二幕、そして十字架の死と復活が第三幕と言えるでしょう。そして、今日のこの箇所から第三幕、十字架の死と復活へと切り替わっていくところなのです。

マルコは主イエスがエルサレムへの「道」を歩んでいかれる、つまり、死の「道」、十字架の死の「道」を歩まれるということを明確に意識して書いています。「道」をキーワードとしている箇所がこれから何度か出てまいります。今日の箇所にもその言葉があります。27節に「その途中」という言葉があります。これは直訳しますと「その道において」であります。日本語の文脈からは、弟子たちとフィリポ・カイサリアの地方へお出かけになったその途中、というように、単に地理的なon the wayとして読めますけれども、それ以上に深い意味があります。この「道において」は主イエスが歩んでおられる道、それはエルサレムへ、そして十字架の死へと歩んでおられる道なのです。今日の出来事も、その十字架への歩みの途中であります。


■フィリポ・カイサリア

今日のはじまりの27節にマルコはこう書いています「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の村にお出かけになった。」今まで伝道や癒しの御業のために、あちらこちらに行かれておられた主イエスと弟子たちでありますから、この一文もさらっと読み過ごしてしまいそうですが、フィリポ・カイサリア地方とはどこでしょうか。聖書の巻末の地図をご覧ください。「6.新約時代のパレスチナ」という地図があります。ガリラヤ湖から北へ、この地図のほぼ一番北にフィリポ・カイサリアを見つけることができましょう。先週ご一緒にお読みしました8章22節を見ますと、主イエス一行はベトサイダにおられました。同じ地図でベトサイダを探してみますと、ガリラヤ湖の北の湖畔にあるのがわかります。さきほど主イエスが歩んでおられる道、エルサレムへ向かう道、と申し上げました。そうしますと、この北のはずれのフィリポ・カイサリアは全く逆の方向です。なぜ、この地へ行かれたのでしょうか。直前のベトサイダのように、癒しの御業を行われたということも記されておりません。弟子たちを伴って、フィリポ・カイサリア地方に向かわれた、その途中の出来事、このフィリポ・カイサリア地方で「あなたはメシアです、救い主です。」と告白した、とそのことだけがここには記されているのです。

このフィリポ・カイサリアはヨルダン川の源流に位置し、風光明媚な場所であったそうです。この地方にはかつてはギリシアの神を讃える神殿がありました。そしてヘロデ大王がこの神殿の近くにローマ皇帝アウグストゥスを祀る神殿を建てたのです。つまりローマ皇帝を神と崇めるためのものです。そしてヘロデ大王の息子のフィリポが当時のローマ皇帝アウグストゥスに敬意を表して、ローマ皇帝の町という意味でカイサリアと名付けました。カイサリアはローマ帝国の基礎を築いたカエサルにちなむものであり、アウグストゥスは叔父のカエサルから後継者として指名されて後を継ぎました。アウグストゥスの本名は、ガイウス・オクタヴィウスでありますが、カエサルの後継者となった時から、ガイウス・ユリス・カエサル・オクタヴィウスと名乗るようになり、そしてその後、元老院から「威厳ある人」という意味のアウグストゥスという名誉称号を贈られ、それ以降はアウグスティヌスと名乗るようになりました。アウグストゥスの名前の由来はともかくとして、フィリポ・カイサリアとは、そのようにローマ帝国と深く結びつき、ローマ帝国を讃える町であり、ローマ皇帝を神として崇める場所なのです。その地において、主イエスは弟子たちに真正面から問いかけられました。


■「何者と言っているか」

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」主イエスはこのように弟子たちに問いかけられました。世間の人々が主イエスをどう思っているか、どう見ているか、そして主イエスの教えや御業をどう受け止めているか、弟子たちはそのことを気にしていたのでしょう。弟子たちはすぐに口々に答えました。「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」。主イエスの伝道活動はガリラヤが中心でありましたが、その名声はユダヤ中はもとより、異邦人の地まで広まっていました。人々の主イエスに対する見方が、ここで三通りあげられました。まず、洗礼者ヨハネが生き返ったとして主イエスを見ている人々がいました。そのことはすでに見てまいりました6章のヨハネの死のところに記されていました。ヘロデ王によって洗礼者ヨハネはその誕生日の踊りの褒美として首をはねられたのでした。洗礼者ヨハネを殺したヘロデ王は、今主イエス、弟子たちがいるこのフィリポ・カイサリアの名にあるフィリポの兄弟であります。主イエスが登場した時、ヘロデ王は自分が殺した洗礼者ヨハネの再来ではないか、と恐れたことも弟子たちは思い出したに違いありません。二番目には預言者エリヤの名があげられました。預言者エリヤは旧約聖書列王記上17章以降に登場する預言者です。異教の神バアル、その預言者たちとの対決、ホレブ山での神との対話、そして最後には火の旋風の中、火の馬の引く戦車に乗せられて、天に上げられました。この事は列王記下2章に記されています。そのようにして天に上げられたエリヤは、終末の時、主の日が訪れる前に、神によって再び遣わされるという信仰がユダヤの人々の中に芽生えていました。マラキ書3章23節以下、「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあります。また、主イエスが十字架上で息を引き取られる間際に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、何故私をお見捨てになるのですか)」と祈られましたが、この「エリ」を「エリヤ」と聞き間違えた人たちは、「エリヤを呼んでいる。」と言い、「エリヤが彼を降ろしにくるかどうか、見ていよう」とも言いました。このように主イエスの時代、エリヤについては様々な憶測がなされていたのです。


■メシア待望

そして主イエスは弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」主イエスの最初の質問、「人々はわたしのことを何者だと言っているか。」この質問は、主イエスが世間の評判を気にされていたということではありません。弟子たちに、周りがどう言っているかはわかった、では、あなたがたは?と弟子たちに明確な告白を求められました。あなたがたはわたしをどのように思っているのか、あなたがたにとってわたしはどのような存在なのか。これが主イエスの質問の核心です。

そしてペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」ヘブライ語のメシアは「油を注がれた者」、香油を注がれて神の特別な使命に与る人、という意味の称号です。イスラエルの王、祭司、預言者などが油を注がれました。メシアというヘブライ語は、人々の長い信仰の歴史の中で使われて、当時の人々も用いていました。そして、地上の支配者として、ローマ帝国の支配をはねのけ、イスラエルの民を解放してくれる王としてのメシアを待ち望んでいました。この29節の言葉は口語訳聖書では「あなたはキリストです。」と訳されていました。メシアというヘブライ語をギリシア語にしますと、クリストス、つまり、キリストです。

このマルコ福音書では「メシア」「キリスト」というこの言葉は1章1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」というところに使われたあと、やっと今日の箇所でメシアと訳されて出てまいります。新共同訳では、1章1節のように固有名詞として使われる時は、キリストと訳し、クリストスが称号として用いられている時は、この29節のように「メシア」と訳されています。そして、この8章以降、この「メシア」という言葉は、この主イエスがメシアである、主イエス、イコール、メシアということを人々が問い、人々が疑い、人々があざ笑うところで使われていきます。


■ペトロの告白

さて、ペトロの「あなたは、メシアです。」というこの告白は、先ほども申し上げました人々のメシア待望に対して、「あなたこそがそのお方です。」という告白です。来たるべき、期待すべきメシアはあなたです。という宣言です。それは正義と平和を実現する力ある王、最終的な王、救い主を意味し、民に対する神の勝利を最終的に実現してくださる方である、という告白でありました。しかし、この告白に対して、30節にありますように、「するとイエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた。」のであります。それはなぜでありましょうか。このペトロのこの告白には二面性があります。つまり、弟子たちに問われてきた「イエスとは誰か」という問いに対して、ついに「メシア」であると理解したということです。しかし、その「メシア」理解は間違っているものでありました。主イエスはご自分が単なる政治的な権力を持つメシアとして見なされる誤解が人々の中に広まることを防ぐため、そしてまた、弟子たちの不正確なメシア理解を正すため、そのために「誰にも話さないように」と沈黙命令を出されたのです。主イエスがメシア、キリスト、救い主、という称号は正しくとも、主イエスがどのようなメシア、キリストなのか、という認識については間違っていたのです。次回、お読みするところになるのですが、それは「受難のメシア」―苦しみ、十字架を負い、死ぬべきメシア―であるということです。聖書を開いておられる方には目に入ってきますが、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」と、主イエスご自身でご自分の十字架への道をお話され、その通りの道を歩んで行かれるのです。


■結び

今日の御言葉の中心は「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。主イエスが弟子たちに直接、一人一人の目を見て問いかけられたように、今、ここにいる私たちにも問いかけられています。私たちもペトロに続いて、「あなたこそ救い主であるメシアです」と答えることができるか、と主イエスに問われているのです。そのメシアとは、受難のメシアであり、主イエスのこの問いは、今、私たちが主イエスをキリストであると呼び、私たちは、キリストに従う者と言い表すことができるかということです。受難のメシアに従う者として告白することができるかということです。かつてこの告白をした者たちは、命をかけ、命を捧げて、その信仰を証ししてきました。日本においてもキリスト教弾圧の中、命を懸けた人々があった事はご存知の通りです。今、信教の自由が約束されている日本では、そのようなことは起こりえないでありましょう。しかし、だからこそ、私たちは堂々と「あなたこそメシアです」と告白する力を与えられたいと願います。はじめにお話しいたしましたように、主イエスがこの問いを弟子たちにされたのは、地上の権力、ローマ皇帝を崇拝する地、フィリポ・カイサリアでした。主イエスはこの世界を本当に支配し、導いているのは、誰か、ということをも問われたのです。人間の力、権力ではなく、大いなる慈しみに富む父なる神がこの世界を支配されておられる、そのことを告げ知らせるための問いかけでもありました。神様の支配を信じて生きる信仰へ私たちを招くために、主イエスは今も問いかけてくださっておられるのです。


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