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『 恵みの塩 』 2023年3月19日

説教題: 『 恵みの塩 』 聖書箇所: マルコによる福音書 9章42~50節 教日: 2023年3月19日・受難節第四主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

石臼を首にかけられて海に投げ込まれるほうがよい、両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるより片方の手を切り捨てるほうが良い、両足が揃ったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命に与るほうが良い、両方の目が揃ったまま地獄に投げ込まれるよりは、片方の目をえぐりだしても神の国に入るほうが良い。ここを読みますと、主イエスは愛の人であるのに、手を切り捨てろとか、目を抉り出せとか、どうにも物騒なというか、猟奇的な印象さえ受けてしまい、優しい主イエスのはずが、どうしてこんなことを言われるのだろうか、と思われるのではないでしょうか。もちろん、聖書の中には主イエスが厳しさを示されるところはたくさんあります、優しいだけの主イエスではありません。しかしながら、ここまで厳しく、そして地獄という言葉が連発されている箇所は他にはないのではないでしょうか。


■「つまずかせるなら」

さて、愛の人、主イエスがこのようにここまで厳しく言われるのはなぜでしょうか。主イエスが本当におっしゃりたいことは何でしょうか・・・そうしてじっくりと読み返してみますと、繰り返されている言葉があります。それは「つまずかせるならば」という言葉です。

つまずかせるならば、石臼を首にかけられて海に投げ込まれるほうが良い。その手があなたをつまずかせるならば、それを切り落としてしまったほうが良い。片方の足のことも同じ。そちらの足があなたをつまずかせるならば、それを切り捨ててしまいなさい。片方の目があなたをつまずかせるならば、その目を抉り出してしまいなさい。すべて、「つまずかせるならば」という前提に基づいています。

つまり、ここでの主イエスのおっしゃりたいことの前提は、「つまずき」であります。この「つまずき」の問題の深刻さを繰り返して話しておられます。それでは「つまずき」とは何でしょうか。この「つまずき」「つまずく」という言葉は聖書によくでて来る大切な言葉の一つです。歩いていた人が、石や何かに躓いて転んでしまうように、信仰によって神と共に歩んでいた人が、歩き続けることができなくなる、信仰の挫折や信仰を失う、ということを意味しています。ギリシア語では「スカンダリゾー」という言葉でありますが、それは英語のscandal、カタカナ日本語でも使われますスキャンダルであります。人の名声を汚すような不祥事、不正、情事などのうわさ、というような時に使われますが、言葉の意味としては、人の順調な歩みの妨げ、障害、という意味です。

ここではすべて「つまずかせる」という形で使われていますから、人をつまずかせる、人が神を信じて生きていくことを妨げる、ということがどのようなことに値するのか、ということがテーマとして語られています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせるならば、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれるほうがはるかによい。」とその罪の大きさを弟子たちに警告なさっておられます。主イエスはここで「小さな者」と言われていますが、「弱い者」と言い換えてもよいでしょう。つまり、つまずかされてしまうのは、弱い者であり、つまずかせるのは強い者、いえ、強くあろうと思っている者、大きくありたい、立派でありたいと願っている人、が人をつまずかせるのです。なぜなら、自分が強く、大きく、立派であろうとする時、それはかならず相手となる人を自分より下の、弱い立場に置こうとすることであるからです。前々回の御言葉でも弟子たちは誰が一番偉いかと議論しておりました。つまり、誰が上か、誰が強いか、ということに心が捕らわれている弟子たちに対する警告がここでもなされているのです。前回の主イエスの名前を使う者に対しても、同じであります。弟子たちは、自分たちこそ正統な主イエスの弟子であるという自負から、驕り高ぶり、周囲の人を低く見て、その人の働きを止めさせようとしました。彼らは信仰において、偉く、そして強くあろうとしたのです。これは単に力を誇示する強権的な行為だけを指すのではありません。信仰における熱心さの裏返しとして、時に私たちにも現れることを心に留めておかなくてはなりません。


■確かな歩み

他の人を「つまずかせる」ことの警告だけでなく、自らの「つまずき」について、43節以下で語られています。私たち自身における「つまずき」、それは自らの手、足、目から起こることである、と主イエスは言われます。それは自分のなした行いが、神様からどう見えるかでなく、人からどう見えるか、このことから「つまずき」は生じます。神様との関係よりも人間関係に捕らわれることから生まれるのです。日々の生活の中で、人間関係の中で、たとえどのようなものを見ようとも、神様との関係において確かな歩みを続けていくならば、つまずくことはない。しかし、つまずきを覚えて生きる者たちは、神様よりも人間に目を向けているのです。神様との関係を大切にする、それを忘れると人間は些細なことでもつまずくことがあります。手も足も目も自分自身の体にあるものであり、自分でコントロールできると思って過ごしています。しかし、本当にそうでしょうか。先ほど、「つまずき」は「スカンダリゾー」、スキャンダルという言葉であると申しましたが、私たちの手は、足は、目は、思いもかけない不正、悪と無縁ではないのではないでしょうか。日々、窃盗であるとか、盗撮であるとかのニュースが流れます。あの人があんなことを、というようなスキャンダラスなニュースを見て、自分とは無縁なことであると考えますでしょうか。ここで主イエスは手と足と目を譬えとしてあげておられますけれども、すでに見てまいりましたマルコ7章21節にはこう書かれていました。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚す。」そうなのです、どれもが私たちと無縁ではないのです。


■「地獄へ」

そのように神から離れて地獄に投げ込まれるよりは、それらを切り落として神の国に入りなさい、と主イエスは言われます。地獄に投げ込まれるとは、神の国、神の支配の外へと堕ちることです。自分中心の生き方によって罪の中に生き、手が、足が、目が、罪を犯すのであれば、切り落とせ、抉り出せ。そのまま地獄に落ちるよりは、切り落としても神の支配の中に、神中心に生きるほうが良いのだと主イエスは、グロテスクなほどのリアルな例を出して語られます。これを聞いている弟子たちはおそらく、手を切り落とす、足を切り落とす、目を抉り出す、それらの言葉を聞いて、何もそこまでしなくても、とか、譬えが極端すぎる、とか思ったかもしれません。しかし、後に彼らが目にしたものは敬愛する師である主イエスの十字架上のお姿であり、それはここで主イエスが語られたお言葉とは比べ物にならない無残に切り落とされたお姿でありました。

さて、皆様の聖書には44節と45節の間、46節と47節の間に十字架のマークがついていると思います。これは何かと申しますと、聖書の始めに掲げられております凡例に記載があります。(4)にこうあります。十字架のしるし:これは底本に節が欠けていることを示す。新約聖書においては、この部分の異本による訳文を当該書の末尾に付した。ちょっと言葉が難しくてわかりにくいかもしれません。つまりは、私たちに伝えらえている聖書はすべて写本によるものです。ですから写本という伝承の中では全く同じ形でなく、違った言葉が加えられていたり、もしくはなかったり、ということがおこるわけです。ここでは44節と46節の文章が欠けており、異なる写本に残されている言葉がこの福音書の最後のところにまとめて記されています。ということです。ですから、マルコによる福音書の最後の部分を見てみますと、新約聖書98頁に「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」としていくつかが記されています。9:44、9:46ともに「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」と書かれています。この言葉が繰り返し記されていたものがあったということです。もしかしたら、本来の伝承においては、手や足の躓きが語られるたびに、地獄の滅びを告げる言葉が繰り返されていたのかもしれません。それほどに「主を畏れ」、神の国のうちに生きるということの大切さ、重要さが強調されているのです

ヨハネによる福音書11章25節には「わたしを信じる者は死んでも生きる。」と主イエスを信じ、主イエスに従う者は、永遠の命が約束されていることが力強く主イエスによって語られておりますけれども、ここではその逆、神の永遠の祝福のうちを生きるのではなく、永遠の呪いのうちを歩むならば、ということが繰り返し警告されているのです。それは地獄であり、神の裁きの苦しみが永遠に続くことを示しています。神の和解のもとに生きる人間には、本来、有限な存在である人間が不滅の、永遠の祝福を受けることができるのだという神との絶対的な関係が示されていますが、その一方では、その神との関係が対立している時、その永遠もまた、破滅的な恐怖が永遠であると告げられているのです。キリストの弟子として生きる、ということは、8章34節にある「自分の十字架を背負ってきなさい」という主イエスのお言葉をどのように生きるか、ということであります。この十字架に生きる道を妨げるものはすべてつまずきであります。お従いする主イエスの背を見ることができない目であるならば、抉り出してしまえ、と言われる厳しさを持っております。


■塩で味付ける

さて、49節で「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」と主イエスは語られます。いささか唐突に感じるかもしれません。これはどのような意味で、この前に語られたこととどのようなつながりがあるのでしょうか。聖書を解釈する聖書学のなかでも、この箇所は「謎の言葉」と呼ばれてきました。旧約聖書レビ記2章13節にこういう箇所があります。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」献げ物をするときには、塩によって清めて捧げるということで、塩は清めを表すものと言われてきました。また、塩は時間が経っても変わらないものの象徴として用いられて、永遠を表す意味もあります。そして続く14節に「初穂の献げ物を主にささげる場合には、麦の初穂を火で炒ってひき割りにしたものを初穂の献げ物としてささげよ。」つまり、火も塩と同じように神に捧げるものを清める役割が示されています。ここで「火」という言葉が使われておりますのは、明らかに48節とのつながりでありましょう。つながりは納得できるとしても、その心は?と理解することは難解であります。しかし、じっくりと眺めていますと、ごくごく単純なことが示されているようにも思えるのです。それは「聖さ」聖なるという意味の聖さがテーマではないかと思うのです。主イエスの弟子としての歩みは聖さを持って、主イエスにお従いするということが示されているのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙12章1節「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」まさにパウロがここで示したことは、さきほどのレビ記の聖い献げ物と繋がります。

私たち自身を神に喜ばれる生けるいけにえとして献げる。そのためには火で清められる。そして塩味を付けられる。日本でも「お清めの塩」というものがあり、仏式の葬儀では塩が配られます。自分の体に振りかけて清める、という考え方です。それと似た考え方でありますが、エルサレム神殿にも塩の蔵があって、献げ物はその塩で清められたそうなのです。しかし、主イエスが言われた「自分自身のうちに塩を持ちなさい」とは、そのように外から振りかけて清めるのではなく、自分自身の内側から聖められる、神によって聖なる者とされる、それが大切なのだ、そのことを覚えておきなさい、という弟子たちへの勧めの言葉として理解したらよいのだと思うのです。


■結び

最後は「互いに平和に過ごしなさい。」という言葉で締めくくられております。ここを読みますとコロサイの信徒への手紙4章6節が思い浮かびます。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」このコロサイの信徒への手紙はキリストに従う生き方としてどうしたらよいか、ということが示されています。ですから「塩で味付けられた言葉」とは「何が神のみこころであるか、何が神に喜ばれることか、何が正しいことか」を含んだ言葉なのだと思うのです。今日の箇所は弟子たちの中で誰が一番偉いかと議論し、主の名を使うものを止めさせようとしたという出来事の締めくくりとして語られています。「自分自身のうちに塩を持ち、互いに平和に過ごす」それは弟子の歩む道が示されていることであります。弟子たちに語られた主イエスのメッセージは、神の恵みのうちに生きなさい、私たちは神の恵みの塩によって聖なる者とされるのである、ということであります。



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