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『 主の呼びかけ「起きなさい」』 2022年10月2日

説教題: 『 主の呼びかけ「起きなさい」 』 聖書箇所: マルコによる福音書 5章21節~43節(2) 説教日: 2022年10月2日・聖霊降臨節第十八主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

先週に引き続き、5章21節からの御言葉に聴きます。この箇所は二つの救いの出来事が同時進行しています。聖書箇所の始まりと終わりにヤイロの娘のことがでてきて、十二年間出血の止まらない女性の救いの話が間に挟まれている形です。先週はその女性の救いの話に聴きました。黙ってそっと主イエスの服に触れた女はすぐに癒されました。主イエスが「私の服に触れたのは誰か」とその女性に呼びかけ、そして招いて下さり、女性は主イエスの御前に立つのです。そのようにして神との交わりの中に置いて下さり、平安の内に生きるようになったという救いが示されていました。さて、今日の登場人物はヤイロとその娘です。


■ヤイロ

ヤイロはユダヤ教の会堂の管理責任者です。地域の人々の信頼厚く、尊敬を受けた社会的信用のある人物でした。そして、彼は主イエスをどのように見ていたかと言えば、彼にとって主イエスは異端者でありました。主イエスの教えは律法を中心とするユダヤ教社会に波紋を投げかけるものであったからです。会堂と社会の秩序を乱す者であり、主イエスと弟子たちを苦々しい思いで見ていました。すでにこの頃、主イエスとユダヤ教の指導者との間は緊張関係にありました。主イエスを殺す相談までなされていたことが3章に記されていました。ですから、会堂長という立場のヤイロは主イエスとは直接の対立とまではいわなくとも、距離を置いていたと言えます。

そんなヤイロの娘が重い病気になりました。どのような手を尽くしてももはや死を免れえない、絶望的な状況になった時、ヤイロの心を捉えたのは主イエスへの思いでした。主イエスの癒しの御業は知れ渡っていましたから、ヤイロもその力ある業について伝え聞いていました。それまでは批判的な目で見ていたヤイロでしたが、愛する娘の死が彼を襲った時、医者にも見放されて死を待つしかなくなった時、ヤイロは今までの自分の社会的立場も何もかも投げ捨てて、主イエスへと心を向け始めたのです。ヤイロは大勢の群衆の中で主イエスの足元にひれ伏して、「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と主イエスにしきりに願ったのです。ヤイロの深い苦しみに触れた主イエスはヤイロに案内されて、家へと向かいます。


■家へ向かう途中で

一刻を争うのです。急いでください。できることなら、主イエスの手を引いて、走りたい、ヤイロはそう思っていました。しかし、大勢の群衆が主イエスを取り囲み、その歩みはなかなか進みません。ヤイロの心せく様子が伝わってきます。十二年間出血の止まらない女性の出来事はそのような中で起こりました。ヤイロの気持ちとしては、このようなところで足止めされてしまうとは、と気が気ではありません。いらだちも伝わってきます。ましてや、相手は汚れているとされている女性です。ユダヤ教の会堂長である彼は、人々に律法を守らせる立場にあります。汚れた者は人には触れてはならず、そして触れられた者も汚れた者とされる、その教えは十分に知っていました。汚れた女性に触れられた主イエスもユダヤ教律法に照らして考えれば、汚れとなります。ヤイロはその主イエスが娘に手を置く、触れることを願っているのです。そのような矛盾ともいえる思いが彼の脳裏をかすめます。

しかし、主イエスは女性と相対して、そして、女性を救われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」女性に向けられたその言葉をヤイロもそばで聞いたはずです。律法の規定にとらわれない主イエスの行いと、憐れみと励まし、確信に満ちた言葉は、ヤイロにも力を与えたはずです。


■死の現実

しかし、やはり心配していた通り、娘の死は現実のものとなりました。「イエスがまだ話しておられる時に」とありますから、まだ女性が側にいる間にです。まさにその時に、家から来た人々が娘の死を告げるのです。ヤイロは、主イエスが来てくれれば、娘に手を置いて、そして癒してくれる、そう信じていたのです。それなのに、もう死んでしまった、という。死は命に対して絶対的な力をもっています。どんなに死が迫っていても、まだ生きているならば希望が残っていたのです。ヤイロはそう思っていました。しかし、その望みが絶たれてしまったのです。「先生を煩わすには及ばないでしょう。」家の使いの者はそう告げます。女性と話などしなければ、間に合ったかもしれないのです。ヤイロはそのように思ったことでしょう。しかし、時間は取り戻せません。

しかし、主イエスは「その話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい。』」と言われます。この「そばで聞いて」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「聞き流して」となっていました。死の知らせを聞き流すのです。この状況の中で、どうして恐れずにいられるでしょうか。そして信じなさい、と言われる。何をどう信じて、どうすればよいのでしょうか。


■「恐れることはない、ただ信じなさい」

「恐れることはない」という主イエスの言葉は、旧約聖書において神がそのお姿を示す時に、使われる特徴的な言葉です。命の造り主であられる神が、ここでお姿を示されるのです。幼い娘の死という現実の前に立ちすくむヤイロに向けて、主イエスが言われました。私たちは誰もが、死に直面した時、恐れを感じるでしょう。死は終わりであり闇であり、私たちの存在を無にします。それゆえに、死に恐れを覚えるのです。しかし、主は「恐れることはない」と言われるのです。なぜならば神が関わってくださるからです。神がここに臨み、そして働かれる、そのことを告げています。そして主イエスは続けて言われます。「ただ信じなさい。」それは、「わたしを信じなさい」「今、あなたが見ているこの私を信じなさい」と主イエスが言われているのです。主イエスを信じること、ヨハネによる福音書11章25節ではこのようにも言われています。主イエスは言うのです「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエスは命の源であられる主イエスなのです。ヤイロは幼い娘を失ってしまった深い悲しみ、死の力への恐怖、絶望、そのような気持ちに支配されていましたが、そのような彼に主イエスは、ただただ私を信じなさいと言われるのです。


■眠っている子ども

主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、ヤイロの家へ向かわれます。マルコはわざわざ、弟子たちの中でこの3人を連れて、と記しています。同じようにマルコが「主イエスがこの3人を連れて」と記すのは、9章の「山上の変貌」と言われる主イエスのお姿が変わるところと、14章、最後の晩餐の後、主イエスが十字架にかかられる前の「ゲッセマネで祈り」です。この3人の弟子たちは、主イエスがどなたであるのか、ということを証しするために選ばれています。3人が立ち会った場面は、主イエスが神の栄光を秘かながらも示されるところ、主イエスがまことの神の子、救い主であることが明らかにされているところなのです。

さて、ヤイロの家に着くと、人々が大声で泣きわめいていました。ユダヤ人は人の死に際して、悲しみを、泣いたり、叫んだりという行動にあらわしたそうです。豊かな家では、「泣き女」という泣くことを職業とする人を雇い、夜昼、号泣を近所に聞かせたそうです。そうすることによって、家族の悲しみの深さを確かめ、そしてまた、世間に対してその家の豊かさを示したと言われています。

ヤイロの娘の死に際して、そのような泣き女がいたかどうかはわかりませんが、いずれにしても社会的地位のある会堂長ヤイロの家ですから、家族や近所の者たちなど、大勢の人がいたことでしょう。そして大声で泣き叫ぶその姿は、すでに死を確信し、主イエスに対して、「あなたが来ても手遅れです」という拒否を示しているように思えます。そんな人々に対して、主イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われますが、それを聞いた「人々はイエスをあざ笑った。」と聖書は記しています。何をばかなことを言っているのだ、と人々は思いました。子どもがすでに死んでしまったことを知っているからです。ここにも主イエスへの反発、拒否の気持ちが示されます。

しかし、主イエスは「死」を通常の「死」を見る見方を否定されます。「眠っている」そう言われるのです。眠りとはいずれ覚めるべきものです。主イエスにおいては死は眠り。再び覚めるべき復活を待つ姿です。主イエスは他の聖書箇所でも、死んだ者を同じように「眠っている」と表現されています。有名なラザロの死のところです。ヨハネによる福音書11章「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」

主イエスはお言葉通り、子供の手をとり、「タリタ、クム」と言われました。これはアラム語でありますが、翻訳が書かれています通り、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」と言う意味です。まさに眠っている子どもを起こすように、主イエスは声をかけられました。すると、少女は目覚め、そして起き上がって歩き出しました。ヤイロの娘は12歳になっていた、と聖書は記しています。ユダヤの風習では、女性は12歳で大人としての歩みが始まります。主イエスの救いの御業によって、新たな生涯へのいのちが与えられたのです。そして出血の止まらない女性が苦しんだのは12年間でした。彼女も主イエスによって新たないのちが与えられました。この二人の女性の12年、ひとりは苦しみ続けた12年、もうひとりはすくすくと愛され、成長してきた12年でありました。しかし、いずれの時にも、神は共に働かれるのです。


■12という数字

12という数字は聖書において特別な意味を持っています。皆様もご存知のように、イスラエルの十二部族に由来します。そしてそれはすべての民を意味していました。主イエスが選ばれた弟子は十二使徒でありました。この十二使徒たちはすべての地へ神の国の完成のために遣わされたのであります。そしてヨハネ黙示録21章12節以下にはこう書かれています。「都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。このいずれ完成する新しい都エルサレムは、キリストを信じるすべての者が救いに与る、その完成の場であります。その12の門は、一日中決して閉ざされることはないのです。

マルコはここで希望なく12年苦しんできた女性、12年で希望が断たれそうになった少女、そのどちらをも12という数字を使いながら、救いへ置くことのおできになる主イエスの完全性、神の救いの完全性を示しているのです。


■主イエスは共に歩まれる

主イエスにとって少女の死は終わりではありませんでした。主イエスは死を支配される神の子であられるからです。ヤイロは娘のためにそれまでの自分を捨てて、主イエスに救いを求めてひれ伏しました。主イエスはヤイロと共に歩んでくださり、そして死の力を打ち破り、家族を絶望から救ってくださいました。

旧約聖書、哀歌3章22節以下にはこのように記されています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。…主に望みをおき尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる。」

主を尋ね、そして主が共に歩んでくださるその道においては、もはや死の力が私たちを支配することはないということです。ヤイロの娘を死から救い出して下さったように、わたしたちをも、主は救い出してくださいます。主イエスの大いなる恵み、それは肉体の死は眠っているのと同じであり、そして目覚めるときが与えられるということです。主イエスは「わたしを信じなさい。」と言われる。それは目覚めるときが与えられる、そのことを信じなさい、と言うことであります。

父なる神は主イエスを十字架へと歩ませ、そして死ののち、三日目に復活させてくださいました。それが主の慈しみであります。そしてそれはわたしたちを罪と死の力から解放するためでありました。それが主の憐れみであります。


■結び

わたしたちは誰もがいつか必ず死の時を迎えます。しかしその死は、わたしたちを最終的に支配するものではありません。主イエスの死と復活によって、私たちの死は眠りにすぎないものとなりました。主イエスのご復活に与って、わたしたちも目覚めの時の約束が与えられたのです。

ヤイロに与えられた娘の死からの救いの出来事は、わたしたちへの約束の証明であります。主イエスの十字架の死と復活、その事によって実現する救いの恵み、その先取りでありました。

神の国の完成の時、必ず、死は滅ぼされて、わたしたちは「わたしはあなたに言う。起きなさい。」という主の御声を聞くのです。そして眠りから目覚めるように、起き上がります。そして新しいエルサレムの開かれた12の門へと歩んでいくのです。この大いなる希望が与えられているわたしたちは幸いであります。

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