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『 主の「しるし」 』 2023年1月22日

説教題: 『 主の「しるし」 』 聖書箇所: マルコによる福音書 8章1~21節 説教日: 2023年1月22日・降誕節第五主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

この「四千人に食べ物を与える」を読みますと、皆様は6章にありました「五千人に食べ物を与える」の出来事を思い出されることでしょう。マルコはなぜ、同じような話を2回も記したのでしょうか?実際、このような同じような出来事が二回も起こったのでしょうか?もしくは実際には一回起こった出来事がその伝承のうちに、分かれて二つの違う出来事として伝えられるようになったのでしょうか?このようなことを聖書学者は研究してきましたが、ここは聖書学問の研究の場ではなく礼拝でありますから、説教として語られる時、聖書が語っていることをそのまま受け止める、聖書が語る言葉を福音として、神のみ言葉として聴く、それが基本だと思っております。ですから福音書記者が伝えようとしていること、つまり、この似たような出来事を6章とこの8章で二度も、ほとんど同じような内容の奇跡を主イエスが「行った」と記している、そのことをそのままに受け止めたいと思います。そうしますと、次には、ではどうして二度も?ということが疑問として浮かんでまいります。まずはそれが大切なことであるから、繰り返されたということが言えるでしょう。主イエスはこの奇跡が示していることに意味があり、それをわかってもらいたいと思っておられたのでしょう。ですから二度も同じことをなさった。私たちはこのような出来事、何が起こったなど、のことはよく覚えております。しかし、それが何を意味しているかということについては、案外簡単に忘れてしまうものです。ですから繰り返し何度も聞き、その意味をも深く理解する必要があるのではないでしょうか。


■五千人+四千人

6章の五千人と8章の四千人が満たされたこの同じような出来事、どのような違いがあるのでしょうか?また、五千人に続く四千人の意味は何でしょうか。6章の30節以下にマルコが記すその記事を順を追って見てみたいと思います。まず五千人が満たされたその場所はガリラヤ湖でした。そして人々は皆ユダヤ人でありました。満たされた後のパンくずは12の籠に溢れるばかりになりました。その12の意味とはイスラエルの十二部族を指し示しているということをお話しいたしました。主イエスによって神の救いが実現して、新しい神の民が興されていくことを示しているのです。

そして7章1節以下では主イエスはファリサイ派の人々と論争をなさいました。ファリサイ派はユダヤ人の指導者であり、神の律法を守ることを大切にしている人々です。しかし、彼らは規則を守ることに縛られ、人を裁き、神の御心から結果的に離れてしまっていました。神の民であるはずの者たちが、神のご計画を受け入れなかったのです。

そして主イエスはユダヤ人の地を離れて、ティルス、異邦人の地に行かれました。そこではシリア・フェニキアの女、デカポリス地方での耳の聞こえない人を癒されたことが記されておりました。異邦人の地で主イエスの御業が示されたのです。

そのあとが今日の四千人が7つのパンと少しの魚で満たされる話へと至ります。8章1節は「そのころ」という言葉で始まっています。ですから、それは7章31節にある「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」ころ、ということでしょう。ですからこの四千人が7つのパンで養われたのは、同じガリラヤ湖でも異邦人の地に面した東側の地でありました。この奇跡の後、主イエスは「弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」とあるように、ダルマヌタとは聖書地図にも記されていないのですが、ガリラヤ湖の西側の地でありますから、この奇跡の時はガリラヤ湖の東側におられ、そして西側へと舟で向かわれたのでしょう。

このことは神の恵み、神の救いがユダヤ人から異邦人へ、全ての民へと広がっていくことを指し示しています。異邦人も主イエスのパンで満たされた。異邦人も主イエスによって、ユダヤ人と同じ恵みを受ける者であることが示されているのです。そしてパンくずの数字にも意味があります。今日の箇所、8節では7つの籠で一杯になったと記されています。7という数字は完全数です。ですから世界のすべてを示しているのです。イスラエルの12部族に始まった神の恵みは地の果てまで、全世界に及ぶことが示されています。


■憐れみ

そしてこの五千人と四千人の出来事の両方に語れていますのが、私たちに対する神の「憐れみ」です。それが群衆に対する主イエスの思いとして示されています。6章34節では、大勢の群衆を見て飼い主のいない羊のような有様を「深く憐れみ」とあります。そして今回の8章2節では「群衆がかわいそうだ」という主イエスのお言葉から始まっています。この「憐れみ」と「かわいそうだ」という言葉は同じ言葉であります。以前にもお話しいたしましたが、この「憐れみ」という言葉は内臓が痛むほどの感情です。主イエスはご自分の体が痛むほどに私たちを憐れみ、かわいそうだ、と思い、ユダヤ人にも、異邦人にも、憐れみのまなざしを向けてくださったのです。


■弟子たちの無理解

一方で弟子たちに目を向けますと、両方の出来事に共通して語られているのが弟子たちの無理解です。五千人を満たされた時、弟子たちは主イエスが「人となってきてくださった神の子であられる」ことを理解していませんでした。そしてその後、弟子たちはガリラヤ湖を舟で渡るのですが、逆風に悩まされて漕ぎ悩みました。そしてそこに来て下さった主イエスが神の子であることに気付かず、主イエスを見て脅え、幽霊だと叫んだのでした。

今回の四千人が満たされた後も、主イエスと弟子たちは舟で移動され、その時、彼らはパンが一つしかないことを問題にしていました。主イエスと弟子たちで13人いるわけですから、彼らは、次の食事はどうしようか、どうしてこうなったのだ、誰のせいか、などと騒いでいたのではないでしょうか。そんな弟子たちに主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種に気をつけなさい。」と言われました。これはパン種は小さくとも膨らむから、彼らのような悪い影響が広がらないようにしなさい。という意味でありましょう。主イエスのウイットに富んだお言葉に思えます。しかしこの言葉を聞いた弟子たちは、「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、」と論じ合います。はなはだ大きな勘違いです。弟子たちもまた、自分たちのパンのことに心を奪われて、それが大きく膨らんで、主イエスのお言葉の意味が全く分かっていないのです。弟子たちだけでなく、私たちも何かに心が奪われた時、御言葉をまっすぐに、正しく受け止めることができなくなります。神以外の何かにすぐに支配されてしまうのです。


■ファリサイ派とヘロデ派のパン種

パン種とはご存知の通り、私たちになじみのある言葉で言えば、イースト菌のことです。少量入れるだけでパン生地を発酵させて膨らませることができます。少しの量で全体に大きな影響を及ぼすということです。11節には、ファリサイ派のパン種がどのような悪影響を及ぼしているかということが示されています。彼らは「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。」とあります。彼らも確かに救い主の到来を待ち望んでいました、そして救いの実現を願っていました。彼らは、主イエスを救い主として受け入れるためには、証拠を見せろ、自分たちを納得させることができるものを見せることができるか、それによって自分たちが判断しようではないか、と思ったわけです。自分たち規準で神を決めようとしているわけです。そもそもが「イエスを試そうとして」ですから、主イエスをテストしようとしているわけです。神を試す、とても傲慢な考えです。

ファリサイ派の「しるし」の求め方は、サタンの誘いと同じものであります。マタイ4章で主イエスが荒野で誘惑を受けられた時、サタンは主イエスに言いました。「もし神の子なら、これらの石をパンに変えてみよ。」そのような証拠を求めているのです。

こうして記事で読みますと、私たちはファリサイ派の傲慢さ、彼らの思い上がりに気付きますが、私達も神様からの恵みが自分の納得のいくようなものであることを願ったり、自分の思いが叶う形での証拠を求めて、神様をテストするようなことをいたします。神様がいるならば、私のこの願いを聞いてくれるはず、そうしたらこのようになるはずだ。というように、私達も自分の納得のいく「しるし」を求めることがあるのではないでしょうか。


■パンくずからわかること

主イエスはパンを一つしか持っていないことで弟子たちが論じあっているのをお聞きになって、とても厳しい言葉を弟子たちに投げかけます。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」心、目、耳、何かを理解するのに必要な器官をすべてあげられて、主イエスは問われるのです。さて、5つのパンで五千人を満たした時、パンくずで一杯になった籠はいくつあったか。「12です。」弟子たちは答えます。では、7つのパンで四千人を満たした時はいくつあったか。「7つです。」弟子たちは答えます。弟子たちは主イエスがなさった御業の結果、どうなったかということはきちんと覚えていました。主イエスが五千人、そして四千人の人々が満腹になるという恵みの御業を示されました。しかし、弟子たちはそのことを理解できていないのです。そして今、パンが一つしかないことに心を奪われているのです。主イエスは五千人、四千人、すべての人を生かし、導き、養ってくださるお方なのです。そのことがこうして示された恵みを目で見、耳で聞き、体験して、そして今、ここに共にその方がおられるのに、弟子たちは今持っているパンの数に捕らわれて、どうしようか、とあたふたしているのです。残ったパンくずの籠の数は覚えていても、そのことの示す本質はわかっていないのです。


■結び

主イエスは「まだ悟らないのか」と弟子たちに言われました。彼らは何を悟るべきなのでしょうか。それは今、ここに、弟子たちと共におられるお方が神の子であり、旧約から約束されてきた救い主であられる、ということです。神の御子が弟子たちとともにいてくださることが、どれだけ大きなことか、どれだけ大きな恵みであるか、そのことを彼らは知るべきでした。主が共におられるのであれば、必要なものはすべて満たされます。

今、私たちの周りには食べ物が溢れています。しかし、それらで体の空腹は満たされたとしても、心の空腹は満たされることはありません。それは心の飢餓とも言われます。

主が共に歩んでくださるその恵みは、空腹を感じる前に食べ物が与えられるということではありません。それは、足りないようでありながら、振り返ってみると必要が満たされていたというようなことだと思います。私たちにはいつも何らかの問題があり、満たされず、足りないと、感じることがあるでしょう。しかし、主の救いを待ち望み、祈ることで、気づけば必要が満たされていたという恵みを味わうはずです。

ファリサイ派のような「しるし」を求めるのではなく、弟子たちのように目の前にある「しるし」を表面的に捉えるのではなく、心の目で主である「しるし」を追い求めましょう。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く。」主のしるしはかわることがありません。


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