『驚きとつまずきから』2025年11月23日
- NEDU Church
- 4 日前
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説教題: 『驚きとつまずきから』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編139:1-10
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書13:53-58
説教日: 2025年11月23日・降誕前第5主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
この13章はここまで主イエスによってたとえが語られてきました。人々に語られ、そして弟子たちに向かっては天の国の奥義をお語りになりました。主イエスの公生涯、ご自身でこの世に、この地に来られた使命、そしてその期間をわかっておられたお方でありますから、ご自分のこの地でのお働きの後、天の父の御心が弟子たちを通して伝えられるように、天の国がこの地になるための働きをなしてくれるようにと、弟子たちに天の国の奥義をお話になられたのでありました。そして「これらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。」とありますように主イエスは一仕事終えられた、ということです。
■故郷ナザレ
「そこを去り」とありますのは、ガリラヤのカファルナウムのことでありましょう。主イエスはカファルナウムを伝道の拠点としておられました。弟子のペトロの家もありましたから、そこを拠点としてガリラヤ地方のあちらこちらで御言葉を語り、そして癒しの御業をなさっておられたのでありました。そして主イエスがお帰りになった故郷、とは主イエスがお育ちになったナザレであります。聖書巻末地図で見ていただくと分かる通り、伝道の拠点であったカファルナウムはガリラヤ湖の辺りの北側にあります。ナザレはカファルナウムから30キロほど南西に降ったところにある村です。旧約聖書にはナザレという地名は出てきません。それほどになんでもない小さな村であります。カファルナウムは魚が豊富に取れるところでありますから、弟子たちとなった漁師たちがいて、そしてそれらを売り買いするような市場もあったことでしょう。活気に満ちた場所であったと言えますが、ナザレはそこで暮らす人のことを全員が知っているような静かな小さな村でありました。主イエスはそこで家族と暮らしておられたので、「ナザレのイエス」と呼ばれていたのです。そのような故郷にお帰りになって、会堂で教えられた、とあります。どのような小さな村でも、成人男性が10人いたならば、会堂が作られていました。礼拝を捧げ、そして律法を学ぶ会堂でありました。主イエスは山上の説教の時のように、小高い丘など、野外で大勢の群衆を相手に教えを語られましたが、あちらこちらの会堂においても律法の教師としてお語りになられました。そしてご自分の故郷ナザレの会堂でも同じようにお語りになったのでした。
■権威ある者の教え
主イエスが何をお語りになったのか、ということはここには記されておりませんけれども、
主イエスが山上の説教で群衆にお語りになった時の群衆の反応は7章28、29節にあります。このようにありました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」群衆が驚いた、と記されていますように、主イエスの教えを聞いた人々は非常に驚いた。別の表現をしますと、びっくりする、あっけに取られるということです。それは主イエスが「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」からでありました。ユダヤ教の教えは律法に基づいておりますから、この律法を守るためにはこのようにすべきである、もしくはこの掟に従うためにはこれを守りなさい、というように律法の権威に基づいてラビたちは教えていました。カファルナウムの人々も、またナザレの人々もそれを聞き慣れていました。しかし、主イエスは山上の教えをお話しされた時、「あなたがたも聞いている通り、このように命じられている。しかし、わたしは言っておく。」とおっしゃいました。5章から7章の律法の命令に対して、一つ一つ丁寧にお話しされた時に繰り返されております。主イエスは律法の本来の意味を、そしてその正しい解釈、つまり神の意図を示されました。それは主イエスご自身が権威をお持ちであるということを前提にして教えておられるということです。そのことにカファルナウムの人々は驚きました。その時と同じような驚きが、主イエスの故郷ナザレでも起こりました。
■人々のつまずき
そのように主イエスの教え、主イエスの持たれる権威に驚きを覚えた人々、「大勢の群衆はイエスに従った」と8章1節にはあります。主イエスのことを知りたい、もっと教えを聞きたいと思った人々、彼らは主イエスの御教え、御言葉を聞く群れとなりました。これらの人々の驚きは期待へとつながっていきました。しかし、今日、示されているナザレの人々の驚きは、57節に「人々はイエスにつまずいた」とありますように、拒絶へとつながっていたのでした。54節にこうあります。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」この「いったいどこから得たのだろう」という言葉は56節にも繰り返されています。そして、この間に挟まれている箇所に人々が主イエスにつまずいた理由が示されています「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」人々は、主イエスを知っており、その家族も皆知っています。大工であったヨセフの子で、母はマリア。主イエスはその長男で、その下には兄弟姉妹がいる。ときちんと列挙されているように、主イエスが育った様子を見てきたのです。それが30歳を過ぎた頃に村から出て行って、何やら人々に教えたり、人を癒したりしているというような噂は聞いたことがあるけれども、どうやら村に帰ってきて、ウチの村の会堂でも教えているではないか。どうなっているのだ、どこであのような知恵をつけてきたのか、と怪訝に思ったのです。そのような子どものことの延長上に主イエスをおくが故に、主イエスが神の子、救い主としてお語りになっていることは受け入れることができませんでした。それが彼らのつまずきであります。主イエスはそのような故郷の人々を見て、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」と言われた、と57節にあります。今、共に読んでいますのは、マタイ13章でありますけれども、一つ前の12章の最後のところには主イエスの母、兄弟が主イエスを訪ねてくるという箇所がありました。12章46節以下です。その時、実の家族たちが「外に立つ」という表現で、彼らの立ち位置が示されていました。気が変になっているのではないかと噂になっている息子、兄を取り押さえにきたという家族は、神の言葉を語り、神の御業をなす救い主を受け入れることができなかったのです。主イエスが今日の箇所で、故郷の人々、家族、と言われたのはそのこととのつながりを示すものでありましょう。
■神の言葉を語るお方
さて、ここに示されている主イエスのお姿、どのように見ても望ましくないお姿であります。福音書記者はなぜ、このようなことを記したのでしょうか。ここで主イエスが示されている恵みとは何なのでしょう。どのような真理を私たちに告げておられるのでしょうか。そのことを聞き取りたいと思うのです。
神の言葉は何のために語られるのかといえば、それを信じてもらうということのためです。信じるということが大事なのであって、感心させるとか驚かせるためではありません。一方、つまずくというのは、石に突っかかって、その石を取り除く、邪魔なものとしてどける、ということですから、驚いたその後に、それを信じるのではなく、何だこんなもの、と言ってどけた、ということです。言葉が受け入れられない。この神の言葉は人の言葉として語られます。そうでなければ、私たちは神の言葉を聞くことはできません。神の言葉を委ねられているお方が、その人が故郷では敬われないのです。神は私たち人間に近く、できるだけ近く、親しくあろうとされて、主イエスを人としてお遣わしになられた。しかし、そのことによって近しいところ、自分の故郷で受けいれられない、ということがここで示されています。神が人として私たちの世界に住み込まれようとした時、神を受け入れることができなかった。人と共にあろうとした神を受け入れられなかったのです。
■それぞれにとっての故郷
さて、ここではナザレという主イエスがお育ちになった場所が故郷として示されました。私たちもそれぞれに故郷を持ち、また、現在生活している拠点を持っています。それは自分がよく知っているものであり、そこで見たり聞いたり、感じたりすることは自分のテリトリーにおける基準として正しいと考えています。つまりホームグラウンドというのは、自分の手の内にあり、自分が主人としていることができる場所です。そのように思っている中に、主イエスが入ってこられて、自分の知っている主イエスでとらえようとする時、私たちを含む人々は主イエスにつまずくということです。この世界は全て神のもの、神がお住まいになるところです。しかし、私たちはそこを自分たちのものだとして占領しているのです。占領しているというのは、他の人が入ってくることを許さないということです。主イエスが入ってこられることを許さないわたしたち人間は、主イエスを拒否し、そして結果として主イエスを十字架につけるということをしたのです。主イエスは57節で「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われましたけれども、それはすでに十字架の予告でありました。どこでも卑しめられ、敬われず、そして殺される、という預言です。それは神がこの世を愛し、そして主イエスが人としてこられたからでありました。神の愛は、主イエスにおいて最も具体的に、究極的な形で表され、そして私たち人間の罪も主イエスにおいて、最も具体的に現したと言えるのではないでしょうか。
■結び
私たちは自分が主人である限り、神の愛、神の恵みを味わうことはできません。主イエスに従う、主イエスのものとなる、ということは、自分が主人であることから、主イエスに明け渡し、そしてその時には、私たちは、私たちのために神がなしてくださったこと、神の独り子の主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださったという途方もない恵みを知ることになります。慣れ親しんだ、自分のよくわかっている世界にいる方が安心できるかもしれません。しかし、そこにいる限り、私たちはそれ以上のことは起こらないのです。主イエスを主として受け入れる、新しい世界への旅立ちは勇気のいることかもしれませんが、私たちは神の計り知ることのできない恵みの中に置かれることになります。今日の最後の箇所、58節、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」とありますように、私たちが自分たちの世界に閉じこもり、そこから出ようとしない限り、主イエスの恵みの力は発揮されないのです。今日の詩編139編には途方もなく大きな存在である神が示されています。私たちのちっぽけなテリトリーとはスケールの違う神は私たちそれぞれの全てを知っておられ、全てを悟っておられます。主イエスを主人として神の言葉を受け入れる時、人間の知識や常識を大きく超えた奇跡、恵みの御業が私たちに示されます。私たちは誰もが主イエスにつまずきますけれども、主イエスが立ち上がらせてくださいます。主なる神は私たちがどこにいようともそこにおられ、そしてつまずいた私たちをその御手を持って導いてくださり、右の御手をもってとらえて立ち上がらせてくださるのです。私たちは主イエスを見上げて、立ち上がらせてくださったそのお方を主としてお迎えし、従ってゆきたいと思うのです。


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