『神の仕事』2025年11月9日
- NEDU Church
- 11月10日
- 読了時間: 10分
説教題: 『神の仕事』
聖書箇所: 旧約聖書 創世記18:16-33
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書13:24-43
説教日: 2025年11月9日・降誕前第7主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
前回は13章1節から23節を聴きました。「種を蒔く人のたとえ」でありました。今日与えられた御言葉は24節から43節です。「毒麦のたとえ」そして「からし種とパン種のたとえ」と主イエスがたとえでお語りになっている箇所が続いております。さらには前回同様に、たとえ、理由、説明という同じ3部構成になっています。今回の箇所の特徴的なことはたとえが二つ挙げられていること、「毒麦」と「からし種とパン種」です。そしてからし種とパン種はマルコとルカにも記されていますが、毒麦のたとえはこのマタイ福音書にしかないのです。これにはどのような意味が込められているのでしょうか。先にからし種とパン種のたとえから聴きたいと思いますが、これらはいずれも天の国のようだと言われています。からし種、パン種、いずれもとても小さなものが大きくなる、一気に大きく膨らんでゆく、その姿が神の国、天の国の見事なばかりの発展の様子を示しているということです。マタイの福音書が書かれた時代、それは今までの救い主を待ち望んでいた時代から、主イエスを救い主として信じる人々が広がった時代でありました。小さなパン種が大きく膨らむように、かろうじて目に見えるほどの小さなからし種がどんどん成長してその枝に鳥が巣を作るほどの木に成長する。伝道がそのような急成長と重ねて語られている、それが、からし種、パン種のたとえです。
■毒麦のたとえ
からし種、パン種が天の国と似ている、と言われたのと同様に、今日の最初、マタイのみに記される毒麦のたとえも天の国と似ていると言われています。しかし、何がどのようにたとえられて似ている、と言われたのか、と言いますと、内容は真逆であることがわかります。先ほど申し上げたようにマタイ福音書の書かれた時代、それは主イエスを救い主と信じる人々があっという間に膨らんで集団になりました。集まる人々によって教会もできました。そしてそのような晴々とした明るい面とは真逆の混乱もありました。それはキリスト教の歴史を見ても明らかです。それは外からの力による闘いというよりも、むしろ内部に湧き起こる異質なもの、異端との闘いに代表されるように、内側から崩れ、分裂するということでありました。おそらくマタイはそれを実体験し、主イエスによって到来した神の国になぜ平和でなく、争いが起こるのか、なぜ、すくすくと真っ直ぐな麦だけではなく、毒麦が生えてくるのかということに頭を悩ましたに違いありません。マタイを含む弟子たちは、主人である主イエスの種蒔きの手伝いをしたのです。主人の言うとおり、選ばれた良い種によって、良い実りがあることを信じ、収穫の時を楽しみにして一生懸命蒔きました。芽がでて、伸びてきた、その成長を見守り、育っているのはきれいな良い麦であることを信じていました。主イエスの仰せの通りにして、全てが良いものであることを信じて疑いませんでした。しかし、です。実ってみると毒麦も現れてきました。僕らの驚きの様子が27節に示されています。「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」良い種から育った良い麦よりも、むしろ毒麦が力強く伸びているようにも見えて、驚きと落胆が感じられます。主人は「敵の仕業だ」と申しました。「神が教会を建てるとき、そのかたわらに悪魔がチャペルを建てる。」という言葉があります。宗教改革者マルティン・ルターが言った言葉です。まさに主イエスが良い種を蒔いたその畑に、悪魔は一見すると同じような種、似たような種を蒔くのです。神の教会の隣に悪魔のチャペルが立っている。悪魔は神と同じような顔をして、同じような言葉を語りながら、人を神から離そうとするということです。そして、刈り入れの時、神の国の完成の時まで、良い麦と毒麦は混在して育っていきます。神はそのようにご自分の畑、つまりここでは神の畑としての教会、もしくはもっと広く考えれば、この世界に善と悪とが混ざっていることをお許しになっているということです。抜き取らなくて良い、刈り入れの時に、刈り入れをする人々に、麦と毒麦の区別を教えると言います。自分が責任を持ってきちんと始末する、それはまず毒麦を集め、それを束にして焼くことを教える、と言われるのです。毒麦は焼き滅ぼされ、良い麦は残されて神の救いに与ることができる。終わりの日の神の裁きのことが語られています。
■神の畑
この「神の畑」を教会に当てはめて考えて見ますと、最初に申しました通り、キリスト教会はその初代教会の時代から教理的なことでもさまざまなことが混在してきましたし、パウロが多くの手紙に書き送っているように、教会内にも不道徳や差別などの問題がありました。現代の私たちの教会においても、何も問題のない教会などないでありましょう。外から見ると、教会というのは聖なる場所であり、キリスト教徒というのもきちんとした人たちとか、正しい人たちとかいうイメージで見られています。実際、それを否定するのとも少し違いますけれども、教会の群れ、そこに加えられている人々は決して間違いのない正しい者たちだけの群れではない、ということは皆さまよく理解していることです。それはそもそもが私たちは罪人であるという自覚において、教会ではあるがままで良いと認められていることであり、飾らずにいえば遠慮のなさ、ということもあるでしょう。私たちは人間として、それぞれが自分らしくいていいよ、と言われているということです。ですから、安心できる場であり、そしてそれゆえに、と言いましょうか、時にぶつかり合い、また、相手に対して傷つけるようなことを言ってしまったりすることがあるということです。そして些細な気分を害するという程度のことは多々あれども、大きな争い、闘いになることもあるのです。教会という畑が決して、「一律の良い麦」でないということは明らかです。そしてそれゆえに、でもありますが、教会に導かれて、信仰を与えられても、残念ながら教会から離れてしまう人は確かにおられます。神との関係よりも、教会員同士で嫌な思いをするということが大きくなると、教会から離れることになります。別の教会で信仰生活を送り、神との関係を保つのであればよいものの本当に離れてしまうということもあります。そのような現実を見てみても、教会という神の畑は、ここでは良い麦と表現されていますが、一律に同じ麦でないことがわかります。そのような神の畑ですが、僕たちは、「一律に揃った良い麦だけにしよう」と言います。教会は神の民として集められた人たちの群れでありますから、神の選び、神の招きに応答する人たちだけの群れにしなければ、と考えるのは極めて自然なことであります。しかし、ここで私たちは自分に問わねばなりません。私たち自身、自分が毒麦ではないと確信を持っていえるのか、ということです。おかしなことに、私たちはこの毒麦のことを語る時、自分は毒麦ではないという前提で、良い自分たちの中に毒麦が混ざり込んでいるという考え方をしています。自分は善、相手は悪、そのように断言できるのか、黙々と毒麦を抜き取っていくなら、自分をも抜き取らなければならなくなるのではないか、そのことが問われているのです。
■神の忍耐
そのような自分目線の僕に、主イエスは言われるのです、「毒麦を集める時に、麦まで一緒に抜くかもしれない。」主イエスが抜いてきましょうかという言葉に対して、待てと言われたのは、収穫の時まで待つということを意味しているのではありません。あなたが毒麦という麦は、それは本当に毒麦なのかという問いでもあります。良い麦が混じっているかもしれないではないか、ということでもあります。まだ最終的な形がどうなるかわからないというものもあるかもしれないではないか、ということでもあります。毒麦と思われて抜いてしまったものの中に、良い麦が混ざっていたとしたら、その麦は死んでしまうのです。毒麦だけをきちんとより分けるということができるのか、そのことが問われています。神の思い、それはご自分の畑に育つ麦1本1本を心から大切に思っておられるということです。良い麦の1本でも間違えて抜いてしまうことのないように、毒麦もそのままにしておくということです。良い麦が少し犠牲になったとしても、毒麦を抜き取った方が収穫量は多いでありましょう。しかし、神はだから1・2本は犠牲になっても仕方ないとはお考えにならないのです。そこに神の慈しみの心が示されています。今日の旧約聖書の創世記、アブラハムが神に執り成しを願うその駆け引きが記されているところでありますが、まさに神の憐れみが示されております。ですから、今日のこの譬えのメッセージは、私たちが良い麦か悪い麦か、裁きの日までわからない、とか、教会という神の畑が綺麗に良い麦で整っていないことをどうしようか、と考えるということではなくて、私たちは本来、神によって蒔かれた良い種、良い麦であるという前提から始まります。しかしそのような私たちをも神から離れるという罪を犯し、そして、私たち自身が毒麦へと組み換え操作されることがあるということです。しかし、そのような私たちをも神は再び良い麦へ変わると信じて待ち続けてくださっておられるのです。前回ともに聞きました種を蒔く人の譬えと同じであります。道端、石地、茨の中にも御言葉の種を蒔き続けてくださる神、私たちの心を耕して、石を取り除いてくださる神、そうして実りを喜んでくださる神なのです。毒麦は良い麦へと変わるということを神は確信しておられます。
■「毒麦」のたとえの説明
さて、そのように神の忍耐、神の憐れみが語られてきた毒麦の譬えですが、36節からのこの「毒麦」の説明においては、いささか神さまのご様子が異なって見えて参ります。ここで語られているのは、厳しい神のお姿であります。その最後の時、世の終わりの時の裁きが明確に語られていて、「刈り入れの時まで、そのままにしておきなさい」と言った主人の言葉の意味については、語られていません。私たちはどのようにこの譬えを聞いたら良いのか混乱してしまいそうですが、主イエスが語っておられることは実に明確であると思います。つまり、この38節にあります「畑は世界」の「世界」はもっと広い世界のことを語っておられるのだということです。教会という神の畑も、この地上全ても、神という創造主が作られた神が支配しておられる畑であります。この世界は神と悪魔の共同所有地ではなく、この世界は神の畑、神のものであります。ですからその最後の時には、神がその悪の力に勝利されるというそのことが語られているということです。
■結び
私たちが知るべきことは、この世の終わりには、神が必ず勝利されるということであり、そしてそれは主イエスにおいて示されていることであります。神は人として十字架で死を迎えられた主イエスを甦りという形で希望を示してくださったのです。これもまた、神の人間に対する忍耐、憐れみ、慈しみ以外の何ものでもありません。私たち一人ひとり、罪の中にあり、決して良い麦とは言えないそのようなものたちを、主イエスの十字架によって良い麦へと変えてくださる、義とされる、キリストを着るというのはそういうことです。教会は、決して特別な汚れのない群れではない、ということも知っておりますけれども、教会は神のものであり、神が支配されておられるその拠点なのです。ですから私たちは、キリストの体である教会に連なり、そして神がご自分の畑に、自ら蒔いてくださった種であることに感謝し、その終わりの時には天の国で間違いなくきれいに輝く麦であることを確信するのであります。


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