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『何にもまさる宝』2025年11月16日

  • NEDU Church
  • 11月17日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『何にもまさる宝』

聖書箇所: 旧約聖書 箴言8:1-21

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書13:44-52

説教日: 2025年11月16日・降誕前第6主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

この13章はたとえが続いてまいりました。「種を蒔く人」「毒麦」「からし種」「パン種」がここまで登場いたしましたけれども、いずれも天の国の奥義について、天の国は〜に似ている、というように語られてきました。そして今日、与えられている御言葉の44節以下、52節までの箇所において、天の国を語るためのキーワードは宝、真珠、魚、そして学者であります。この4つはどのような関連で語られているのか。そのことを一つ一つ見ながら、聴いてまいりたいと思います。

 

■畑の宝

はじめは畑の宝です。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」とあります。当時は大切なものを土の中に埋めるということをよくしたそうです。しかし、それを埋めた当人が死んでしまったりすると、誰のものかわからなくなってしまうということもあったそうです。もしそのようなものがあった場合、土の中の宝は土地の所有者のものということになっていたそうです。ですから、土の中に宝を見つけた場合、土地を買い取れば、土の中の宝も同時に合法的に所有するということになるということです。ここに書かれている「見つけた人」、この人はこの畑の雇人だったのでありましょうか。畑を耕していたのかもしれません。いずれにしても楽々と土地を買えるような人ではなかった。その人が、持ち物を全て売り払って畑を買ったというたとえです。今まで持っていたものをすべて手放してまで、この新しい隠されていた宝を手に入れる。これは私たち、信仰者のことが語られています。天の国は隠されています。その隠されている宝を、私たちは偶然見つけた。偶然見つけた、と一般的な日本語では言いますけれども、それは神が招き、神が導いてくださり、私たちと出会ってくださった、という必然です。神との出会い、それは宝を見つけたということであり、14節にありますように、大喜びをする、ということなのです。持っているもの全てを手放しても畑の宝が得られたことの方が大きな喜びである。それが私たちに与えられている恵み、信仰であります。天の国は隠されている宝である。私たちはその宝を得るために探し回ったということではないのです。意図せず、誰か人を介してかもしれませんが、教会に導かれ、礼拝に集い、十字架の意味を知り、そして信じる者へと変えられたのです。これは途方もなく大きな宝が与えられたということです。

 

■良い真珠のたとえ

さて、二つ目のたとえは、良い真珠、高価な真珠のたとえです。こちらは隠されているものではなく、売られているもの。そして商人はずっと良い真珠を手に入れたいと探していたのでしょう。商人ですから他にも真珠を持っていました。仕入れてそれを売り、利益を出してまた仕入れる、そのようなことを繰り返しているのですから、目は確かです。お気に入りの真珠、それなりに高価な真珠、様々持っていたことでしょう。そしてその素晴らしい一粒の良い真珠を見つけた商人は、それらの今までの自分の商売の成果、元手、利益、全てを売り払って、そしてその一粒の真珠を手に入れるのです。相当な覚悟、相当な決断です。この真珠のたとえ、そして畑の宝のたとえが語っているメッセージ、それは天の国を見出したならば、全てのものを手放しても手に入れなさい、ということです。しかし、それは、それを得るために持っている財産を全て捨てなさいということではありません。畑に隠されている宝も、一粒の良い真珠も、それを見出したならば、それを受けよ、ということです。そして、それを受けるためには手放すものがあるということをも意味しています。神の恵みを受け入れる、ということは、洗礼を受けて、キリストの弟子として生きるということであり、そのためには自分を手放し、神を中心に置くということが求められるのであり、とりあえず手に入れておこうか、というような中途半端なことではなく、はっきりとした覚悟と決断が求められるということです。

 

■喜びを持って

今日の44節からのたとえは弟子たちに対して語られた御言葉です。36節で場面が変わって、家に入って弟子たちに向かってお語りになっているのです。ここまでにも弟子の覚悟、主イエスに従う者の覚悟は、今まで共に読んでまいりましたマタイ福音書の中のあちらこちらに散りばめられていました。弟子とはこの当時の十二弟子のみならず、現在を生きる信仰者のことでありますから、このたとえは私たちに向かって語られているということでもあります。弟子たち、そして私たちは、隠れている宝を見つけた者、本来厳密に言えば、神から見出された者でありますけれども、土の中の宝、今までに見たこともないようなすばらしい一粒の真珠、そのようなものを目にしている者たちであると言われているのです。そしてそのすばらしい真珠をあなたがたは手に入れようと全力を尽くす、そのような姿、主イエスを求める信仰者の姿が描かれているのです。そしてそこでとても大切なことは、先ほども少し触れましたが、44節にあります「喜びながら帰り」という言葉です。この人は、隠された宝を見つけたことを、「喜び」、そしてそれゆえに持ち物をすっかり売り払うのです。それは悲壮な決意ではなく、喜びに突き動かされて、そうせずにはいられないということです。信仰とは、主イエスに従うこと、というのは無理やり、頑張って、我慢して、ということではありません。喜びを持って従い、主イエスについてゆきたい、と思うことであります。

全てを捨てた、そのことをまず示してくださったのが主イエスです。ご自分の命を私たちのために捨ててくださった。何にも変え難いご自分の命を主イエスは私たちのために一才を投げ打って尽くしてくださいました。そして、また、それを成してくださった父なる神、神は私たちを愛するがゆえに、ご自分の愛する独り子を差し出すという途方もないことをしてくださったのです。隠されている宝、とはまさに、主イエス・キリストであり、そして私たちを愛してくださっている神の愛ということです。神はこの愛を示すために、主イエスという神様にとって宝である独り子を私たちに差し出してくださり、そして与えてくださったのです。この宝は大いなる恵みであり、それゆえにこの宝を見出した私たちは、神の恵みの支配のうちに置かれるために、その天の国のご支配のうちで生きるために、主イエスの弟子となり、主イエスに従う。それは大いなる喜びを持って、ということです。

 

■魚の網のたとえ

47節以下では魚の網のたとえが語られます。今の私たちも見るような地引網のような網でありましょう。網を打ち、そして手応えが感じられるほどの魚が網にかかる。まさに一網打尽ということです。そして岸に引き上げられて、良いものと悪いものとにより分けられると言います。それは先週の箇所40節でも同じことが語られています。世の終わりの時には、良い麦と悪い麦が分けられて、良い麦は倉に収められ、悪い麦は火で焼かれる。同じように魚もより分けられるというのです。この麦も魚も私たちのことです。広い広い畑も、湖に投げ下ろされる大きな網も、神のご支配のもの。神が耕された畑であり、神が作られた大きな網。それらの中に存在する良い麦、毒麦、大きな魚、小さな魚、全て、神が作られた、神のご支配のうちにあるものだということです。私たちはすでにこの大きな神の網の中に捕えられているのです。悪魔の網の中にいるのではなく、神の網なのです。ですから、前回もお話ししましたように、私たちが毒麦として焼かれてしまうのではないか、悪い魚として捨てられてしまうのではないか、ということを心配する必要は全くありません。私たちは神がご自分の畑に自ら蒔いてくださった麦、そしてご自身の網の中にいる魚なのです。私たちは神様の網の中でピチピチと音を立てて跳ねる良い魚なのです。そこにいることを喜ぶ魚なのです。網に捕えられてしまった、私の命も終わりか・・・と考える魚ではなく、神の網の中に捕えられたこと、自分の命は恵みのうちに置かれていると喜ぶ魚であります。この新しい価値観、このまるで逆説的な価値は主イエスによってしか与えられないものであります。

 

■弟子たちへのメッセージ

これらのたとえ、メッセージは先ほども申しましたけれども、弟子たちに対して語られたことです。弟子たちは畑に隠された宝を見出し、そして素晴らしい一粒の真珠を見ているだけでなく、持ち物を売り払って買った者たちであります。彼らはこれらを手に入れるために真剣に取り組みました。ただ彼らが熱心であったということではなく、そこにあるのは主イエスの招き、神の招きでありました。彼らは特別信仰深かったわけでもなく、ただ普通の生活を送っていた普通の人でありました。彼らが主イエスに招かれた時のことを、どうぞ思い出してください。最初の弟子たち4人は漁師、日常の魚を獲って売るという生活をしている最中に、主イエスが彼らに呼びかけました。マタイ4章です。「わたしについてきなさい。」彼らは「すぐに網を捨てて従った。」「舟と父親を残して従った。」徴税人のマタイを弟子にしたときも同じです。マタイ9章、「わたしに従いなさい。」その言葉に、「彼は立ち上がってイエスに従った。」とあります。彼らはいずれも主イエスの呼びかけに、「すぐに従った」「すぐに立ち上がった」のでありました。こうして彼らは弟子になったのです。これは今の私たち一人ひとりに当てはめてみても同じです。神が私たちを選び、招き、そして教会へと、礼拝へと招いてくださった。私たち自身が立ち上がって今、ここにいるのです。そのようにして教会に招かれたお一人お一人は、さらに立ち上がり、洗礼へと導かれ、そして信仰者の群れへと、弟子へと加えられている、天の国のことを知る者へと変えられるのです。

 

■天の国を学んだ学者

主イエスは今日の御言葉の締めくくりに52節で「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と言われました。主イエスは弟子たちに向かって語られましたが、その弟子たち、そして今、主イエスに従って生きる私たちのことを「天の国のことを学んだ学者」と言われるのです。学者は知識の倉を持っています。そして疑問や混乱、さまざまな状況を落ち着いて必要なものを取り出して整理して考えることができる。それはなぜか、神の秩序を与えられているからです。ここで語られている「古いもの」それは旧約聖書で語られた律法でありましょう。「新しいもの」とは主イエス・キリストそのものであります。ですから、天の国のことを学んだ学者は古いものをも大切にし、新しく生きるということです。主イエスが、マタイ5章で、「律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためにいらした」と言っておられる通りです。

 

■結び

私たちも主イエスを知る前と、主イエスに出会ってからでは全く価値観が変えられました。今までの価値観から解き放たれて、そして新しく自由なものとされました。時には、古いものを手放すことを求められるでしょう。しかし、思い切って主イエスにお委ねすることで、今まで自分がこだわり、大切に思っていたことはなんだったのだろうか、と思うほどの世界が与えられます。そしてそうして与えられるものは、はかり知ることのできない恵みであるということに、大いなる喜びを見出し、喜びを持って歩んでゆくことができるのです。その歩みには神の祝福があります。感謝いたします。

 
 
 

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