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『正義を告げ、正義の道を示す主』2025年9月14日

  • NEDU Church
  • 9月16日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『正義を告げ、正義の道を示す主』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書42:1-4

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:9-21

説教日: 2025年9月14日・聖霊降臨節第15主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

前回、12章1節から安息日のことが問題になっております。今日の箇所9節からの出来事は弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたその同じ安息日の出来事でありましょう。麦の穂を摘んで食べた出来事をファリサイ派の人々は安息日にしてはならないこと、と非難いたしました。彼らは主イエスのお答えに明らかに不満を持っていました。反撃の機会を探していました。この日は安息日ですから、ユダヤ人たちは会堂に集まり、律法を学び、祈りを捧げる礼拝をしていました。主イエスも会堂へ入られました。するとそこには片手の萎えた人がいた、と9節に記されています。

 

■ファリサイ派の反撃

「安息日に病気を癒すのは、許されていますか。」と人々が尋ねた、とあります。そこにいた片手の萎えた人を意識しての発言でありましょう。そして「人々はイエスを訴えようと思って」とありますように、明らかに挑発的な発言であり、「人々」とありますのは、明らかにファリサイ派でありましょう。そもそも9節の「会堂にお入りになった」の会堂は正確に訳しますと、「彼らの会堂に」であり、ユダヤ人の会堂における指導者はファリサイ派でありますから、ファリサイ派の会堂で、主イエスに忿懣やるかたない思いでおりますファリサイ派の人々が、主イエスに悪意のある質問をしたと言うことです。彼らは当然のことながら、主イエスが病人や体の不自由な人を癒しておられることを知っていました。ですから、目の前に手の萎えた人がいれば、主イエスは癒しの御業をなさるに違いないと思いました。しかし、時は安息日。病気の癒やしと言う医療行為は命の危険に関わる緊急性のもの以外は安息日には禁じられています。多くの人の集まる会堂で、主イエスが今日、それをしたならば、安息日の律法違反として訴えることができる、彼らはそのように考えて、挑発的な質問をしたのです。

 

■主イエスのお答え

悪意に満ちたファリサイ派の問いを受けた主イエスはこうお答えになりました。11節、12節です。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」主イエスのお答えは明確です。「安息日に善いことをするのは許されている。」のです。「許されている」と訳されている言葉は、原文ではもっと強い意味の、「正しい、適切である」と言う言葉です。そのことをわかりやすくお話になるために「穴に落ちた羊」を例にとられました。自分の羊が安息日に穴に落ちた、さあどうするか。安息日であったとしても引き上げるのは当然だと言うことです。前回もお話ししましたが、彼らは安息日には、どこまでならしても良いか、たとえば、何歩まで歩くのならば、労働にならないか、と言うようなことを真剣に議論していたのです。ですから穴に落ちた羊を助けることが何よりも優先されるか、安息日だから、助けるのは翌日にしてせめて餌だけやるのは許される、と言うような私たちから見たらくだらないとも思えることを話し合い、規則として決めていました。彼らにとって一番大切なことは、律法を正しく守る、違反しないということなのです。彼らは人間ではなく、掟を見ています。それに対して主イエスが見つめておられるのは、掟ではなく、人間なのです。落ちた羊はもちろん可哀想で放ってはおけないというのは当たり前ですが、主イエスはその羊の飼い主である人間を見ておられます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて」とありますように、その人にとっては、唯一の羊なのでありましょう。ルカによる福音書には百匹の羊のうちの一匹が迷い出た時にどこまでも探し求める羊飼いの話が出て参ります。この一匹を追い求める心はそれが安息日であろうとなかろうと変わりはないのです。ましてやこの人は一匹しか持つことのできない貧しい人であったと、ここには示されています。その人に対して、今日は安息日だから羊を引き上げてはならない、と言うのか、と言うことです。この人の貧しさや、悲しみ、悩みを全く見ていない律法に意味があるのでしょうか。主イエスの言われる「安息日に善いことをするのは許されている。」と言うお言葉には、そのような人間に対する神の憐れみ、慈しみ、恵みの御心が示されているのです。神が人間に与えた掟は、その神の御心によって与えられているものです。安息日の掟も同様です。先週も共に聴きましたように、神を礼拝することによって与えられる安息、癒やしを得て、神の恵みを実感するためにあるのです。

 

■憐れみを示す主

主イエスはそのことを行為で示されました。手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われ、そしてその人の萎えた手は癒やされたのです。並行箇所のマルコではこの人を会堂の真ん中に立たせた、と書かれています。夕方になれば安息日は終わります。それまで待つことなく、あえて、その時、その場で真ん中で主イエスはご自分が安息日の主であることを示されたのです。それは律法を形の上で守ることだけを考え、それをお与えになった神の憐れみの御心に気づかないファリサイ派の人々に対する真っ向からの挑戦です。それを目の当たりにしたファリサイ派の人々は、14節にありますように、「出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のです。これまでにも対立は示されていましたけれども、はっきりとした殺意がここに示されています。主イエスを十字架の死へと追いやった第一歩です。主イエスは父なる神の愛、憐れみの御心を実現なさるために、人々が本当の安息のうちに置かれるためにこの世に来られました。しかし、人間は神が与えてくださる安息に与るどころか、自分が掟を守ることによって安息を得ようとして、まことの安息の主を拒絶し、安息日の掟を破る者として殺そうとするという罪を犯しているのです。

 

■正義を知らせる

15節には「イエスはそれを知って、そこを退かれた。」とあります。主イエスは彼らの殺意に身の危険を感じて離れた、と言うことではありません。15節の続きに「大勢の群衆がついてきて、彼らを皆癒した」とありますように、彼らの表舞台から離れられて、主イエスがなさるべきことを続けていかれたのです。会堂においては、彼らの挑戦を真っ向から受けて、神の正義、正しさを示されましたが、ここからは、静かにその正義を示していかれるのです。主イエスはご自身がこの後、辿られる道、十字架での死を知っておられました。しかし、まだその時ではありませんでした。まだなすべきこと、語るべきことがたくさんあったのです。そして癒しの御業は宣教のための道具ではなく、主イエスと出会った人との間の愛のしるしでありました。ですから、癒しの御業が主イエスの力の証明のように広がっていくことをお望みになりませんでした。それゆえに、癒やされた人々には、言い触らさないように戒めて、そしてご自身の正義、神の正義を示してゆかれるのです。そのような主イエスのお姿をマタイは、イザヤの預言の成就として示しています。18節以下にあるのはイザヤ書42章1節から4節の御言葉をもとにしてマタイの解釈を加えながら記しています。まず、この僕は争わず、叫ばず、そしてその声を聞く者は大通りにいない。つまり、主イエスが静かにご自分の道を歩んでゆかれる姿が示されています。愛の業を行いながらも、それを言いふらすなと言われるのです。彼は何のために来たのか。ここに元のイザヤ書にない言葉がマタイの主張として加えられています。それが18節と20節にある「正義」と言う言葉です。彼は正義を知らせるために来ました。一般的に正義を打ち立てるためには、声を大にして、力づくでも悪を打ち破り、戦わなければならないと考えられています。しかし、この僕は、そうではないのです。力を誇示することはありません。

 

■異邦人までも

さらにもう一つ、イザヤ書にはない言葉があります。18節と21節にある「異邦人」と言う言葉です。ファリサイ派の人々の考える救いは、律法を与えられ、それを守っているユダヤ人のみが救いに与るのでありました。ですから、罪人や異邦人は神の救いの外にあると考えていました。今日、登場した人は片手の萎えた人でありました。このような障碍を持つ人というのは当時は罪の結果と考えられていたわけですから、ファリサイ派の人々にとって、当然、救いに与る対象ではありませんでした。神の民に加えられることはない人であったのです。しかし、この僕は、異邦人にも正義を知らせ、そして異邦人はこの僕に望みをかけるのです。主イエスの歩み、主イエスの正義はこのような異邦人をも導く者であります。私たち人間において絶対的な正義というのは存在しません。つまり、一方においては正しくとも、相手側にとっても完全な正しさではないからです。それを主張することによって世界では争いが起こり続けています。しかし、主イエスの正義は、「正義を勝利に導くまで、傷ついた葦をおらず、くすぶる灯心を消さない。」主イエスは傷ついた人、弱い人を押し除けるのではなく、消えかかっているランプを吹き消してしまうような力で正義を強制執行するのでもなく、傷ついた人、弱い人を守って歩まれます。ですから、その正義は絶対的な正義であり、どのような人にとっても希望となるものなのです。そしてその守りが徹底したものであったことを私たちは知っております。争わず、叫ばず、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、主イエスはご自分が苦しみをお受けになり、ご自分が傷を受けることであり、そしてご自分を盾にして弱い人、傷ついた人を守られた。それが主イエスの十字架であります。主イエスはそのようにして私たちを守り、養い、導いてくださっておられるのです。これが神の慈しみであり、神の憐れみなのです。これが主イエスが示された正しさ、正義なのです。

 

■結び

「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」神はこう語られています。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時、父なる神の霊が鳩のようにくだり、そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天の父の声が聞こえた、とマタイ3章の主イエスの洗礼の箇所に記されています。神はそのご自分の愛する独り子に、正しくも厳しい十字架への道を歩ませる決断をなさいました。そして「この僕にわたしの霊を授ける」と語られました。何という大胆な神のご計画、ご決断でしょうか。私たちはこの神の愛、神の憐れみ、神の慈しみに支えられているのです。そして主イエスの正義の道が私たちには示されています。ご自分の身をもって神の愛を、神の正しさをお示しくださった主イエスをただ仰ぎ見て、感謝を持ってその御跡をたどらせてください、と今日も共に祈り願います。

 
 
 

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