『天の都を目ざして』2025年11月2日
- NEDU Church
- 16分
- 読了時間: 10分
説教題: 『天の都を目ざして』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編13:2―6
聖書箇所: 新約聖書 ヨハネによる福音書14:1-6
説教日: 2025年11月2日・降誕前第8主日_召天者記念礼拝
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
11月2日は召天者記念礼拝として、多くの方ともに礼拝を捧げることができることを感謝いたします。この根津教会は1899年に日本福音教会によって伝道がなされ、そして1919年に本郷福音教会という名前でこの地に会堂が建てられました。1941年に今、私たちが属しております日本基督教団に加入するにあたり、名称が根津教会と変えられて今日に至ります。
教会設立から今年で126年目、根津での教会としての建物は106年の歴史があります。この教会の教会員として信仰生活を送られて、天に召された方々はお配りしたプログラムにお名前が記載されている通り53名おられます。今日のこの礼拝には、年に一度、この日だけ礼拝に集われるという方もおられますし、毎週、ここで礼拝を守っている教会員もおられます。いずれにしましても、主イエスというお方によって結びつき、この教会を安住の地として過ごした者たちを思いつつ、この礼拝をお捧げする次第です。この召天者記念礼拝といいますのは、確かにすでに召された方々を思う時ではありますが、その方々を供養する、という趣旨のものではありません。信仰を持ってこの地上を生き、そして召された方々は天の父のもとにおられます。ですから、この上なく安心で安全な場所におられるということであります。その神に感謝し、神を讃える、賛美する、それは今日に限らず、礼拝の基本ということです。
■天路歴程
今日の説教題を「天の都を目ざして」としたのですけれども、皆様はジョン・バニヤンという作家、またその小説「天路歴程」をご存知でしょうか。17世紀にイギリスで書かれました。その小説の副題が「天の都を目ざして」であります。この天路歴程の大まかなストーリーを最初にご紹介したいと思います。主人公の名前はクリスチャンです。彼はこの世での様々な苦難が辛く、自分の魂をどうしたら救うことができるのか、と悩んでいました。エヴァンジェリスト、つまり神の言葉を伝える人に導かれて、彼は家族を離れて一人で重い荷物を背負って旅立ちます。天の都を目ざすのです。その旅の様子が描かれているのがこの小説です。キリスト者一人一人の旅路が描かれているということです。落胆という名前の沼におち、出だしからそのような災難にあってうんざりして、元の町に引き返します。しかし助けてくれる人があり、再び旅を続けることになります。その後も誘惑にあい、何とか旅を続けます。様々な苦難を乗り越えて、クリスチャンは天の都の門に辿り着く。そして肝心なことは、クリスチャンが十字架の前に辿り着いたその瞬間に、それまで背負ってきた重い荷物、これが背中から滑り落ちたということです。十字架を見上げただけで、背中の重荷が取り除かれた、彼はこのことに恐れ慄き、その目には涙が溢れたのであります。この先も実はまだストーリーは続きますが、簡単にいうとこれが第一部の重要なポイントです。そしてこの小説には第二部がありまして、第二部はクリスチャンの妻、クリスティアーナが主人公です。彼女は悩める夫が旅に出ると言ったとき、「勝手に一人で出て行くがいいわ」と言ったことを後悔し、夫が暮らす天の都に息子たち、またご近所さんたちを連れて旅に出るという話です。その旅路にも確かにたくさんの苦難がありますが、すでにその道を辿った男、クリスチャンの妻であるということで歓迎されます。そのようにして信仰の旅路を歩み、そしてその最後にはクリスティアーナは「主よ、わたしはあなたのみもとに参ります。」という言葉を残して、天の都へと旅立って行く。これが天路歴程という小説の概略であります。
■住むところがたくさんある父の家
さて、今日の聖書箇所はヨハネによる福音書の14章1節以下が与えられました。この14章というのは、主イエスが十字架におかかりになる前の日の夜に弟子たちに語られた説教です。告別説教と言われています。弟子たちはこの数時間後に主イエスが捕えられて、死刑の判決を受け、そして十字架で死なれるということは知りませんでした。思ってもいないことだったのです。しかし、主イエスはご自分が十字架にかかって人としての死を迎えるということは知っておられました。それが父なる神のご計画であったからです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」このように語り始めました。主イエスは父なる神がどのようなお方であるか、父なる神のおられるところはどのようなところかということを語っておられます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」このように言われても、弟子たちには何を言われているのか分からなかったでありましょう。主イエスのお言葉は当時、直接その場にいた弟子たち、そして私たちにも語られているものです。ヨハネによる福音書14章をみていただくとわかりますが、この14章のはじめのところには「イエス」「父」そして左のページには「聖霊」と言う言葉が少し太字になって書かれています。キリスト教において、三位一体ということは大変重要な意味を持っております。基本であるとも言えます。つまり、天の父、子なるキリスト、そして聖霊というこの三つを持って神の完全さを表します。全ての創り主である父なる神がおられ、私たち人間と同じ姿になってくださった主イエス・キリストがおられ、そして主イエスは十字架で人間として死をお迎えになります。復活なさり、父なる神のもとに帰られ、その後は聖霊が私たちを守り、支えてくださっている。極めて簡単に言いますとそのような関係性です。先ほどの2節から3節の御言葉は、主イエスが十字架の死を迎え、復活され、天の父のもとに帰られ、そして聖霊を与えてくださるというそのことを告げているのです。「場所を用意する」というのは、単に私の席も取っておいて、とか、片付けてスペースを作るというような簡単なことではありません。キリスト者となった者が父なる神の御許に行くというのは、重い荷物を背負った人間が、主イエスの十字架、主イエスの死によって、その荷を軽くされて、悩みの中を歩く生き方から、解放される。そして父なる神の子である主イエスを通して、父なる神のもとに迎え入れられるということなのです。ですから、それは主イエスの死があって、主イエスの十字架があってこそのことなのです。3節後半にありますように、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」のです。十字架におかかりになって死なれ、甦りをなさって、天の父のもとに昇られた主イエスのおられるところ、天の父のおられるところにあなたがた、私たちも招かれているということです。
■主イエスの十字架
しかし、4節にありますように、弟子の一人であるトマスが、弟子たちを代表するかのように、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」と尋ねました。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。この主イエスのお言葉は、先ほど父なる神とわたしたちとを繋ぐのが、主イエスであり、主イエスを通して、と申しましたけれども、もう少し丁寧にお話しする必要があります。それが今日の説教題、「天の都を目ざして」という言葉にも繋がります。天の都という言葉は馴染みがないかもしれませんが、天国というと何度も聴いている言葉であります。天国に行く、天国に行けない、子供の頃から聞いてきた言葉です。悪いことをすると天国に行けないよ、というように、私たちの行いによって天国に行ける、行けないというように理解されてきたのではないでしょうか。しかし、私たちはどれだけ良い行いを積んだとしても、全くの完全無欠な人にはなり得ないということです。実際に良いことをし続けてきたとしても、単純なことでいえば、嘘偽りを言ったことがあるとか、人を助けることを見て見ぬ振りをしたとか、心の中で相手に怒り、憎しみを覚えた、とか、誰でもあることでありましょう。仏教的な言葉で言えば、煩悩と言われるように、欲望とか怒りとか愚かさと無縁な人はないということです。そのように考えますと、神様の前に自信を持って、私は良いことをおこなってきました、と言える人はいないということです。ですから、自分の力で父なる神のもとに住まいを与えてもらえる人はいないのです。つまり、天の都を目指したとしても自分の力では辿り着けない、これが現実です。
しかし、神はこの私たち人間をお創りになられた方であり、私たち人間を愛してくださっておられるお方です。そしてなんとかして、神との関係の中に生きるようにと願い続けてくださっています。これを神の慈しみ、と言います。そのことを人間に理解させるために、神は主イエス、神の子を、人間として送ってくださいました。そして神につながるために、主イエスを、十字架にかけ、そして甦らせる、という思いもしない方法を取ってくださったのです。主イエスは神の子であられますから、完全な方であります。罪、汚れのない完全な方を、十字架という形で死を迎えさせるということで、汚れ、欠けのある私たち人間の罪を清算して、神との執り成しを、神と繋げるということをしてくださったのです。このように聞いても、はいそうですか、とはなかなかわからないことでしょう。しかし、先ほど紹介した天路歴程の主人公、クリスチャンが十字架を見上げた時に、背負っていた重荷がなくなった、そして涙した、安心できるところはここである、と実感したように、私たちが自分ではどうにもおろすことのできない重荷は主イエスが担ってくださったのだと知る時、私たちはただ涙する、そして安心する、そして感謝する、十字架はそのような大きな意味を持つものへと変わるのです。
今日、召天者としてお名前をあげた方々は、お一人お一人、間違いなく、同じことを経験し、そしてこの方こそが私の救い主だと告白するに至ったのであります。
主イエスというお方が神の子であり、天の父から遣わされて私たちのところに来てくださったお方であり、この方の歩まれる道を辿りたい、この方は間違いのない正しいお方、この方こそが真理そのものであり、そしてこの方によって与えられる命は天の父のもとに生きる永遠の命である。そのように信じる信仰がそれぞれに与えられたということです。私たちはすべてそのように招かれています。それが人間をお造りになった神の人間への愛の表し方ということなのです。
■結び
今日、この後、聖餐式をいたします。聖餐とは主イエスが十字架におかかりになる前の夜に弟子たちと共にした食事が根拠となっています。弟子たちとパンとぶどう酒を一緒にとられ、パンを十字架におかかりになるご自分の体として、またぶどう酒を十字架で流されるご自分の血として覚え続けるように、と言われました。主イエスの十字架は確かに辛く痛みを覚えるものでありますけれども、同時に、それこそが私たちへの神の大いなる恵みであるということをお伝えしたいと思います。主イエスを救い主と信じ、その方に従うことを告白した者たちは、聖餐という主の食卓に共に与ることによって、神の慈しみ、神の愛を改めて感謝するものなのです。そして主イエスが私たちと同じ形をとってきてくださったことにも感謝するということであります。天の父のもとにおいても常に同じ食卓が用意されております。今日の聖餐式では、すでに召されて天の父のもとに住んでおられる根津教会に連なる兄弟姉妹53名の方々と共に同じ食卓を囲み、同じ恵みをいただきます。そのことに心からの感謝を捧げます。わたしは道であり、真理であり、命である。このことを信じなさい、と言われた主イエスの御声が今日、ここに招かれたご家族にも届きますようにと心から祈ります。


コメント