『主イエスの嘆きの中に』2025年8月10日
- NEDU Church
- 8月10日
- 読了時間: 9分
説教題: 『主イエスの嘆きの中に』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:6-13
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:20-24
説教日: 2025年8月10日・聖霊降臨節第10主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所で語られている主イエスの御言葉は大変厳しいものであります。始まりの20節に「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」とあります。「叱る」とありますが、言葉の意味としては「罵る」というほどの強い言葉です。主イエスの強い憤りが語られています。主イエスが癒しの御業、奇跡をおこなわれた場所、それはガリラヤ湖を中心とする地域でありました。今日の聖書箇所には地名がいくつか出てきておりますので、まず聖書巻末の地図で見ておきたいと思います。コラジン、ベトサイダ、そして23節にあるカファルナウム、これらはいずれも地図6.新約時代のパレスチナのガリラヤ湖周辺、ガリラヤ湖を取り囲むように記されているのを見ることができます。そしてティルスやシドンというのはどこにあるかと言えば、同じ地図の一番上の方、フェニキアという区分の中の地中海に面したところに見つけることができます。つまり、コラジン、ベトサイダ、カファルナウム、これらは主イエスのホームグラウンド、新約聖書の町々です。コラジンという町はマタイのこの箇所とルカ10章の並行記事にしか出てきませんので、主イエスが具体的にどのような御業をなさったのかはわかりませんが、主イエスはガリラヤ中を周っておられたのですから、コラジンもその中の一つでありましょう。一方、ティルスとシドン、これらは地図で見ていただいてお分かりのように、異邦人の町、異教の町であります。旧約聖書の多くの箇所にティルス、シドンが記されておりますけれども、そのほとんどが裁きの対象として登場しています。さらにその後23節に記されております地名ソドム、これは旧約聖書の地名として有名でありましょう。創世記18章、19章にはソドムの町のことが記されています。大きな罪に満ちた町でした。アブラハムは甥であるロトが住んでいたこともあり、なんとかして神にとりなしを願います。しかし、神はこのソドムの町を硫黄の火で滅ぼしてしまいます。そのことは創世記19章24節に記されています。これ以降、ソドムという町の名は、罪ゆえに神様に滅ぼされてしまった町として知られるようになりました。
■ティルス・シドンよりも
さて主イエスはこのガリラヤ湖を中心とするコラジン、ベトサイダで多くの御言葉をお語りになり、多くの癒しの御業をなさいました。しかし、今、主イエスはそれらの町よりもかつて罪に満ちた町であったティルスやシドンの方がまだ軽い罰で済むと言っておられます。なぜ、こんなにも厳しいことを言われるのでありましょうか。それは今日の御言葉の始まり、20節に記されています。「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので」とあります。それが理由です。私たちはこのマタイ福音書を連続して読んでおり、5章から7章が山上での教え、8章から9章が癒しの御業、そして10章が主イエスの御言葉と御業を受け継いでいく弟子たちへの派遣に際して、が語られてきたのを聴いてまいりました。そしてこの11章は主イエスの教えと御業とに接した人々がどのような反応を示したか、ということが記されています。彼ら、群衆は確かに主イエスの周りを取り囲んで、その教えを聴き、そしてその御業を目の当たりにしました。主イエスは9章35節にありますように、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」のでありました。この同じ御言葉が4章23節にも記されていて、間に挟まる5章から9章の教えと癒しの始まりと終わりを示しているということは前にもお話しいたしました。ですから、主イエスが「町や村を残らず回って」というのが、ここに示されている地名、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムとして記されているということです。そうして主イエスはこのガリラヤ地方の町や村を残らず回って、人々に語り、教え、癒しをなさいました。それを見て、聞いて、さらには触れたにもかかわらず、彼らは悔い改めなかった。主イエスはそう言っておられるのです。
■主イエスの嘆き
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。」主イエスは言われます。「不幸だ」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書、そして協会共同訳では、「わざわいあれ」となっています。「わざわいあれ」と聞きますと、主イエスが悔い改めない町に向かって呪いの言葉を言っておられるようにも聞こえます。しかし、この「不幸だ」「わざわいあれ」と訳されている言葉を原語で見てみますと、「ああ」とか「おお」というような嘆きと悲しみを表す感嘆詞です。原語に忠実に訳しますと、「ああ、コラジン。ああ、ベトサイダ。」というようになりましょうか。つまり主イエスは呪いや怒りの言葉を発しておられるのではなくて、心からこれらの町のことを悲しんでおられるのです。主イエスの御言葉、その御業を目の当たりにしながらも悔い改めない町の人々に対して、主イエスが嘆き悲しんでおられる様子が示されているのです。旧約の時代の罪の町、ティルスやシドン、それらの場所でこの地で行われた奇跡が行われたならば、彼らは悔い改めたに違いない。主イエスはそう言われます。粗布を纏い、灰をかぶる、これは悲しみ、そして悔い改めを表す行為として旧約聖書に数多く出て参ります。創世記37章にはヤコブの息子たちが弟ヨセフに対する妬みから穴に落とし、父ヤコブには野獣に食われて殺されてしまったに違いないと告げた時、ヤコブは粗布を腰にまとい、幾日もヨセフのために嘆き悲しんだとありますし、ヨナ書では、神から命じられたヨナが悪に満ちた都ニネベに行き、悪から離れなければ40日後、この都は滅びると告げました。その言葉を聞いた「ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も見に粗布をまとった。このことが王に伝えられると、王は王座から立ち上がって、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。」王は「人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。」と告げました。そして神は彼らが悪から離れたのをご覧になり、滅びを思い直された、というよく知られた箇所にも粗布をまとうことと灰をかぶるということが出て参ります。このように粗布と灰は悔い改めを象徴しているのです。
■主イエスの嘆き
旧約聖書の預言書の多くの箇所でも、粗布をまとい「泣き叫ぶ」とか「心を痛めて泣く」、「悲しみの声をあげる」、「苦悩に満ちた嘆きの声をあげる」というような表現が目につきます。主イエスはコラジン、ベトサイダの人々を責めておられるわけではなく、呪っておられるわけでもないのです。神のもとに立ち帰っていないこと、神を神としていないこと、このことをご自身が深く嘆き悲しみながら、そして共に悲しめるか、一緒に悲しめるかと求めておられるのです。共に悲しむ、心から悲しむということ、それは力づくで強いることはできません。主イエスはそのためにお力を使うということはなさいませんでした。ただひたすらご自身は呻き、悲しみ、嘆きながら、この悲しみ、嘆きを共にしてほしいと呼びかけておられるのです。主イエスはその力、権力を持って号令をかけることはなさらなかったのです。
■カファルナウムへの嘆き
23節でカファルナウムが強調されて名指しされています。このカファルナウムという主イエスが宣教活動の拠点とされておられた場所、そこよりもソドムという重い罪の町、滅びの町の方が軽い罰で済む、とも言っておられます。弟子ペトロの家があり、定宿になさってその家を中心にしてあちらこちらに伝道されました。カファルナウムの人々は主イエスに触れ、主イエスに聞くことが最も多かった人々なのです。それにもかかわらず悔い改めることのなかったこのカファルナウムの地のことを、主イエスはバビロンの王に譬えておられます。それは23節の御言葉、「お前は天にまであげられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」この箇所を主イエスはイザヤ書の14章12節以下を引用して語られました。イザヤ書14章は預言者イザヤがバビロンの滅亡を語った箇所です。「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。
しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」イスラエルを滅ぼし、民を捕囚として連れ帰り、頂点に立ったと思っているバビロンの王。しかし、その栄華は一時的なものであって、主なる神によってその命はとりさられて、死んで墓に葬られるのだと語られています。カファルナウムも同じである、と主イエスは言われるのです。主なる神の御業に接しながらも悔い改めず、自らを神とし、神の前に跪くのではなく、自分を中心にしているということです。ここでも主イエスはカファルナウムを滅びの町ソドムの方がましであると言っておられ、バビロンになぞらえて語っておられるなど厳しく責めておられるように聞こえますけれども、ここでも響いておりますのは、主イエスの呻き、主イエスの嘆きであります。主イエスは嘆き続けられた。主イエスは呻き続けられたのです。どこまでか。それは十字架の上においてなお、呻いておられました。叫んでおられたのです。
■結び
私たちはこの主イエスの呻き、主イエスの嘆き、主イエスの悲しみを聞かなければならない。知らなければなりません。主イエスの十字架に呻きと嘆きと悲しみを見なければならないのです。どんなに深い悲しみを、主イエスが生きて、そして死なれたか、ということを私たちは主イエスの十字架を通して見るのです。神の厳しい裁きが主イエスの十字架ゆえに愛に変わる。それが主イエスの生であり、それが主イエスの死であります。もし、主イエスがおられなかったら、私たちには滅びしかありません。ティルスやシドンのように、そしてソドムのように罪に満ちた町、そこに生きる者として滅ぼされるのです。しかし、主イエスが来てくださり、私たちが滅びることをよしとせず、赦しと愛を持って憐れんでくださったのです。私たちの滅びを、はっきりと見据えてくださっておられる方が、私たちよりも深く嘆き、悲しみ、呻いておられ、そして滅びの中に自ら踏み込んでくださったのです。先ほどお読みいただいたイザヤ書55章の言葉が響いてまいります。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」今を生きる私たちの世界も人間の罪が渦巻いています。不安に満ちています。そのような中にあって、私たちには罪の赦しが与えられております。主イエスの呻きと嘆きと悲しみを通して、十字架は赦しのしるしとして迫ってまいります。十字架を拠り所として、与えられる憩いの恵みに感謝して、常に神を呼び求めることができますようにと祈ります。
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