『まことの安らぎ』2025年9月7日
- NEDU Church
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説教題: 『まことの安らぎ』
聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書6:1-6
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:1-8
説教日: 2025年9月7日・聖霊降臨節第14主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日与えられた御言葉は「そのころ」という曖昧な時を表す言葉で始まっていますが、原文を見ますと、意味合いが異なります。「漠然としたいつか」ではなく、明確な、特別な時という意味の言葉が記されています。前回までの11章をお話ししました時にこの12章の始まりの「そのころ」とつながりがあると申しました。11章では、主イエスが主イエスの御業を見ても悔い改めないガリラヤの人々を嘆き悲しみながら、父なる神に賛美を捧げ、この私があなたがたの重荷を取り払い、あなたがたを休ませるのだ、と言われたのでした。そして、だからこそ、私のところへ来なさいと言われた。それが直前の箇所に示されていたことでした。この12章1節の「そのころ」というのは、まさに「その時」、つまり、主イエスがあなたがたに安息を与えるのはこの私である、とご自分のお姿をお示しになった時、ということです。
■ファリサイ派の敵意
続けて読んでまいりましたこのマタイ福音書も12章に入りました。ここまでにもファリサイ派との対立が少しずつ示されていましたが、今日の箇所において、まさに直接対決しています。安息日をめぐる激しい争いが繰り広げられています。次回ともに読みます9節以下の14節を見ますと、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とありますように、明確な殺意を持って敵対する彼らの姿が描かれています。この12章はそのような闘う主イエスのお姿が示されています。そのような状況になりつつある、ある安息日に主イエスと弟子たちは麦畑を通られました。弟子たちは空腹を感じ、麦の穂を摘んで食べ始めたとあります。この光景を見たファリサイ派の人々が非難しました。彼らが非難したのは、他人の麦畑で穂を摘んで食べるということではなく、安息日にそれをしたということでした。旧約聖書、申命記23:25-26には「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と記されています。つまり、畑のものを籠に入れて持って帰るということは盗みとなるけれども、その場で食べることは許されていました。また、畑を持っている人は持たない貧しい人たちを支えるべきであるということです。ルツ記ではルツが落ち穂を拾い集めますけれども、ボアズは農夫たちにこう命じています。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」このように旧約聖書の律法は、貧しい人、弱い人への配慮に満ちた教えだったのです。
■安息日には
ファリサイ派の人々がここで非難したのは安息日規定に違反しているということでありました。つまり、申命記5:14、十戒の第4の戒めです。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」このように記されています。ファリサイ派の人々はこのことを問題にしました。この安息日を守って、働いてはならない、ということについては、どこまでが仕事、労働となるのか、という疑問が生じることになります。この安息日規定、現在でもユダヤ教徒の一部の人々は守っています。例えば、車の運転はしてはいけない、料理は安息日になる前に調理しておく、テレビも見てはいけない、スイッチを押すこともだめ、といった具合です。スイッチを押すことも禁止ですから、エレベーターのボタンを押すことももちろん禁止です。従って、エレベーターには安息日モードというのがあります。押しボタンは反応しません。開いているエレベーターに乗れば、自動的に動き出し、各階に止まり、一定時間扉が開き、そしてまた閉まる。目的の階についたら降りるという仕組みです。定時になったら照明が消えるタイマーや、作り置きの料理を一定温度に保ち続ける保温プレートなども。安息日グッズとして開発されてきたそうです。現代のイスラエルでは安息日を厳格に守る人々が4分の1ほどだそうです。イスラエルはハイテク国家として知られていますが、安息日には通信や物流は止まります。経済的な損失はあるけれども、人間はずっと働き続けることはできないのだから、神が定めた日は英気を養う日として捉え、それが効率的でもあると考えていると彼らは言います。これが現代的な安息日に関する理解なのかもしれません。しかし、時は2千年前です。ラビの教えに従って、どうすれば神の掟に背いていないかということが厳しく議論され、そして詳細な規定を定めていました。例えば、一日何歩歩いたら働いたことになるか、と問う者があり、一日何百歩という規定が定められるといった具合です。それらの規定に従って、その通りに生きていれば、神の掟を守っているという保証が得られるのであれば、その方が安心ということです。しかし、これらは自分が安心して律法に生きる道を開くだけでなく、他人の行動を監視し、そして裁くものにもなりました。ファリサイ派は律法の指導・監督者として目を光らせていたわけです。ですから、弟子たちが麦の穂を摘むという行為は、安息日を軽んじているというように写ったのでありましょう。その師である主イエスに、どういうことか、と詰め寄ったわけです。
■主イエスの反論
聖書の律法を盾にしてきた彼らに対して、主イエスも聖書で反論なさいました。サムエル記上21章1節以下に記されている有名な物語です。3・4節にこうあります。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。」続く5節、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。」この物語の背景をお話ししますと、ダビデは神によって王として立てられていたものの、まだこの時、王になっていませんでした。当時、王位にあったサウルに自分の王位を狙う者として追われていたのです。ダビデは逃れて、旅を続け、食べるものがなくなり餓えてしまったのでした。その時、祭司であるアヒメレクがダビデに請われるまま、神殿に供えられていたパンを、週に一度交換するときに下げてきた供え物のパンをダビデに与えました。この供え物は本来、祭司のみが食べることを許されていたものでした。そして、神殿にいる祭司は安息日にその務めを果たしていました。民数記28章9節にはこうあります。「安息日には、無傷の一歳の羊二匹をささげ、上等の小麦粉十分の二エファにオリーブ油を混ぜて作った穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物を添える。」祭司はこのように、安息日に働き、そして神の宮において、ダビデは祭司からパンをもらって養ってもらい、祭司は安息日に働いている。あなたがたはこれをどう思うか。主イエスはファリサイ派に対してこのように言われましたのでした。このように言われたファリサイ派は答えに詰まったことでしょう。安息日には一般の人々は仕事をせず、宮詣をするのです。そこで祭司が働く、祭司が務めを果たしています。安息日が安息日として守られるために、働く人がいるのは当たり前のことなのです。それとこれとを一緒にするな、と思ったことでしょう。
■神殿よりも偉大なもの
しかし、主イエスは彼らの言葉を待つことなく、続けて言われました。「神殿よりも偉大なものがここにある。」以前の口語訳聖書では「宮よりも大いなる者がここにいる。」となっていました。大いなる「者」も新共同訳のひらがなの「もの」ではなく、人を表す漢字の「者」です。この違いは、少し文法的なことになりますが、写本によって、「もの」が男性形のものと中性形のものがあったことによります。かつての口語訳の理解では、神殿よりも偉大がお方である主イエスがここにおられると言うことを語っていると言えるでしょう。確かにそのように理解するとわかりやすいと思いますが、現在は中性形の写本から取るのが一般的になっています。そうしますと、「神殿よりも偉大な<ひらがなで表すところの>『もの』がここにある」と言うのはどのような意味なのでしょうか?「神殿よりも偉大なもの」とは何でしょうか。そのことが7節に語られています。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」ここで引用された旧約聖書の御言葉が、本日与えられた旧約聖書ホセア書6章6節の御言葉です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」当時、神殿では、いけにえ、焼き尽くす犠牲の動物が捧げられていました。律法学者たちは罪の赦しのためにどうすれば良いのか、何を捧げれば良いかと言うことを律法に従って指示していました。このような罪を犯したならば、この動物を焼き尽くすいけにえとして捧げなさい、そうすればあなたの罪は赦される、と人々に教えていたわけです。それは厳しく定められていました。しかし、主イエスは言われるのです。神が喜ぶこと、求めておられることは、いけにえを捧げることではなく、愛、憐れみなのだと言うのです。「神殿より偉大なもの」それが憐れみ、それは神の憐れみだと主イエスは言われました。神の憐れみによって、人は生きることができる、人は安らぐことができる。あなたがたはそのことに気づくべきである、とそのように言われたのです。安息日、それは神の与えてくださった恵みを味わうための日であります。神の憩いのうちに置かれる、それが安息日なのです。
■結び
8節に「人の子は安息日の主なのである。」とあります。人の子とは明らかに主イエスのこと。主イエスが私こそが安息を与える者であるといっておられます。前回ともに読みました11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」主イエスの安息への招きが語られていました。そしてファリサイ派に対しても、はっきりと私が安息を与える者であると宣言しておられるのです。そもそも安息とはなんでしょうか。規則に従わせて、労働から解放するということに本当の安らぎがあるのでしょうか。安息日には監視の目を光らせて規則違反をしている人を探すファリサイ派に咎められるのではないかと、その目を恐れながら、あと何歩なら大丈夫だと考えたりするところに安息があるのでしょうか。主イエスはそのことを問題にされたのです。神は憐れみのお方であられます。この神の憐れみは神がお定めになった律法にもきちんと表されております。最初にお話ししました「人の畑のもの」に関する律法です。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。」神の律法はこのような優しさ、神の憐れみに満ちたものであったはずなのです。安息日が掟によって守られて、神殿での犠牲が捧げられることよりも、憐れみの心に守られて、人々が本当の平安のうちに生かされること、このことが大切なのです。主イエスこそが、まことの安らぎを与えてくださるお方である、と言うことを私たちは聞きました。掟を守ることを基準に人を裁く世界ではなく、主イエスによって与えられている安息日は神の憐れみの中に置かれているのだと言う恵みを味わうことが、安息であり、平安なのです。
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