『まことの人・まことの神』2026年9月13日
説教題: 『まことの人・まことの神』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書53:1-12
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書22:41-46
説教日: 2026年9月13日・聖霊降臨節第17主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主イエスがエルサレムへお入りになって宮清めをなさった後、祭司長、民の長老たち、律法学者たちはなんとかして主イエスを陥れようと、悪意を持って続けざまに質問してきました。それらの一連の問いに対して主イエスは譬えを持ってお話しなさり、そして彼らの罪を指摘されました。それらに答え終えた後、今度は主イエスが問いを投げかけるというのが今日与えられた聖書箇所であります。そしてこの問いを持ってエルサレム神殿での論争が締めくくられます。この22章はエルサレム神殿が舞台でありました。そしてエルサレム神殿にいる人々が次々と登場してきました。祭司長、民の長老、ヘロデ派、ファリサイ派、サドカイ派。こうして主イエスは順に対話して、主イエスが持つ権威をお示しになってきました。神殿における祭儀を司る特権階級はサドカイ派でありましたが、ファリサイ派は一般の民に対して強い影響力を持つ律法の専門家でした。神殿の境内で律法を教え、他の教師たちと議論を交わしていました。神殿はそのように礼拝の場であるのと同時に、律法教育と議論の場でもあったのです。おそらく今日の出来事もそのようにファリサイ派が外庭や回廊で集まっていた時のことでありましょう。
■メシアは誰の子か
主イエスは彼らにお尋ねになりました。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」メシア、つまり救い主のことをどう思うか、それは誰の子かと問われました。旧約聖書に精通していたファリサイ派は迷わずに「ダビデの子です」と答えます。このメシア=ダビデの子はダビデ契約と呼ばれています。サムエル記下7章12-16節がその最も中心的なものです。預言者ナタンを通して神はダビデに告げられました。その16節には「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」とあります。ダビデの子孫から王が出ること、そしてその王国が永遠に続くこと、ダビデの王座が永遠に堅くされること、を約束されたのです。そしてイスラエルの民は、この「永遠の王」は単なる歴代の王ではなく、終末に来る救い主として理解され、期待されるようになりました。主イエスがエルサレムにお入りになる直前エリコの町を出たとき、二人の盲人が「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」と叫びました。20章30節です。主イエスの権威あるお言葉、またその御業によって、人々は約束の救い主、メシアはこのお方なのではないか、と噂するようになっていたのでした。こうして主イエスを「ダビデの子」と呼ぶことは、旧約の約束されたメシアであると信じる信仰告白になっていたということです。しかし、多くの民は「ダビデの子」という呼び名で、かつてのダビデの王国のような偉大な統一王国を回復してくれるような、ローマからの支配から解放してくれる力強い地上の解放者を待ち望んでいました。ダビデの子、ダビデの子孫、王であるダビデの血を引く者が、おおよそ1000年前に素晴らしい喜びを先祖たちに味わわせてくれたように、再び私たちにも味わわせてくれるに違いない。失ってしまったその栄光を取り戻してくれる救い主はダビデの子であると彼らは答えたのです。ですから彼らの答えは決して間違いではありません。「そのダビデの子」とは誰か、という問いが投げかけられているのです。
■ダビデの子はダビデの主
「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。」主イエスは重ねてこう問われました。続けて主イエスは『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』と言われました。これは詩編110編1節からの引用であり、この詩編はダビデの詩とされています。冒頭の一文は主という言葉が重なっていて少しわかりにくいので言い換えますと、「神は私・ダビデの君主・王にお告げになった。」ダビデから見れば将来現れるメシアは自分の子孫でありますから、「ダビデの子」なのは当然でありますけれども、そのダビデがメシアを「わたしの主」と呼んでいるのです。つまり、メシアはダビデの子孫でありながら、ダビデが主と呼ぶ方であるということです。神の右に座る者とは、神から特別な権威を与えられた者として、神と共に統治するということです。ですから「わたしの右の座に着きなさい」とは「あなたに王としての権威を与える」ということです。そして「敵をあなたの足もとに屈服させる」とは敵に完全に勝利して、完全に支配するという意味です。神がメシアに最終的な勝利を与えるということであります。さらに言えば、メシアが力づくで敵を征服するのではなく、神がメシアに勝利を与えるということです。メシアはダビデの子、確かにそれはそうだけれども、それだけではメシアを十分に理解してはいないと主イエスは言われるのです。メシアは人間としてはダビデの子、しかし同時にダビデが主と呼ぶ方である。それをあなたがたはどう思うか。こう彼らに突きつけたのであります。
■メシアとは誰か
このマタイ福音書はとりわけ「ダビデの子」という主イエスに与えられている呼び名を大事にしています。1章1節が「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まった通りであります。そのように記して主イエスがアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であるということを強調しました。21章で主イエスがエルサレムにお入りになった時、「ダビデの子にホサナ」そのように歌って人々が迎えたことをマタイは肯定的に書きました。ここまで「ダビデの子、ダビデの子」と重ねて書いてきたマタイが、ここで主イエスご自身によって、「ダビデの子」とは誰なのか、そしてメシアとは誰なのか、キリストとは誰なのか、救い主は誰なのか、と問うておられます。それはこの時代のファリサイ派だけではなくて、教会の歴史において投げかけられ続けていると言えるのではないでしょうか。私たちにも投げかけられているのです。主イエスはダビデの子孫としてお生まれになりました。そしてダビデの子と呼ばれてエルサレムにお入りになった、それも事実であります。しかし、ここで主イエスご自身が、私はあなたがたが思い描いているダビデの子としてここにいるのではない、あなたがたが願っているようなダビデの子ではないのだ、と語っておられるのです。人の血の流れを継ぐだけではなく、神の血筋に立つ者として、神そのものとして私はいるのだ、主イエスはこのように言っておられるのです。メシアとは人々が想像していたような立派な王、高いところに君臨する王ではなくて、むしろ人々の一番低いところにくだることのできるお方であり、そしてまた同時に、神の右の座にお付きになる王、主イエス・キリストであります。主イエスは十字架に至るまで低く、深く、そして甦りをなさって天に至るまで高くあられる方であります。
■まことの人として、まことの神として
主イエスはダビデの子孫として、つまり人としてお生まれになってくださいましたけれども、同時に神の子として来られた方であります。主イエスはここで語られたその圧倒的な神の権威と真理を示されました。今日の聖書箇所の最後に「だれ一人、一言も言い返すことができなかった」とありますように、私たち人間の知性や理性では理解できないことでもあり、口を閉ざすしかなかったのでありましょう。しかし、「主イエス・キリストが人の子であり、神の子である」という、このことが私たちキリスト者の信仰の中心です。実は教会の歴史を見ても、このことが心から告白されるまでには長い年月を要しました。「主イエスは人である」「主イエスは神である」「主イエスは神そのものではない」「主イエスは神に創られた被造物である」と「主イエスは神と同質である」・・・さまざまな意見が交わされて、父と子と聖霊は同じ神であると告白するまでに何百年もの時を要しました。それだけ人間の頭では理解できないことなのであろうと思います。現代の私たちにとっても、信仰の心で受け止めるには時間がかかることです。しかし、主イエスはまことの人であり、まことの神である、というこのことによって、主イエスは私たちを罪から解放してくださいました。仮に主イエスが単なる人間であったならば、私たちを救うことはできません。どれほど立派な人であっても、一人の人間が全ての人間の罪を担うことはできないからです。確かに、主イエスは私たちと同じ人間としてこの世に来られ、私たちと同じように成長し、食事をし、人々の喜びを知り、そして疲れを覚えられ、人々の悲しみに痛みを覚えられました。また誘惑をお受けにもなりました。私たちの弱さを知っておられ、孤独も苦しみも知っておられるのです。このように主イエスが人であるということは私たちにとって大きな慰めなのです。しかし、神の子が人となってくださったのです。私たち人間の罪の清算のために、神が人間を救うために来てくださった。そして私たちの罪を背負って、人として十字架で血を流して死んでくださった。ここに福音があります。人々から見れば、十字架の死は敗北であり、主イエスは人として最も惨めな姿で死なれました。弟子たちからみてもそれは理解できない出来事でありました。しかし、父なる神は三日目に甦りをさせてくださった。復活によって十字架は敗北ではなく、罪と死に対する勝利であったことが明らかにされました。単なる偉大な人物ではなく、天地を造られた神の右の座に着き、全ての罪や悪や、死をご自身の足の下に服従させる権威を持っておられる神の子なのです。それゆえ、教会は、主イエスは人として死なれた神の御子であると信じ、私たちの主と告白するのであります。それが私たちの信仰であり、私たちに救いの道が示されているということではないでしょうか。そして私たちの人生のあらゆる苦難や嵐、悲しみ、そして死の恐怖からも救い出してくださるのです。主イエスはダビデの子であり、ダビデの主であります。この二つが一つであるということが私たちの福音です。天におられる方が私たちのところに来てくださった。そして十字架まで進んでくださった。だから私たちは恐れる必要がありません。私たちの弱さを知っておられる方が私たちの主なのです。私たち一人一人と共に歩んでくださるのです。私たちを救いの道、永遠の命へと導いてくださいます。
■結び
この21章、22章では主イエスが祭司長に、ファリサイ派に、人々に問いかけておられました。「あなたがたはどう思うか」主イエスは厳しく問われますが、それは相手をやり込めるためではなく、悔い改めと新たな始まりを促す問いであり、何が真実であるのかを悟らせるためであります。主イエスに問われる恵みがあります。当時の弟子たちだけでなく、ファリサイ派だけでなく、今、私たちに問われています。「あなたは私を誰と言うか」この問いに答えることは、聖霊の導きによって「わたしの主」を見出すことであります。この問われる恵みに心から感謝し、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したように、私たちも日々、このお方、主イエス・キリストを真実の王として仰ぎつつ、「わたしの主」と告白いたしましょう。
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