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『だから私のもとに』2025年8月31日

  • NEDU Church
  • 5 日前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『だから私のもとに』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:8-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:25-30

説教日: 2025年8月31日・聖霊降臨節第13主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日の箇所の始まりには「そのとき」とあります。どのような時であるのかといえば、前回の箇所が語られているとき、であります。そして、さらには次回の12章の1節には「そのころ」とあります。これを元の言葉で見てみますと、今日の25節の「そのとき」も次回の12章1節の「そのころ」も同じ言葉です。ですから、今日の箇所は前回とつながり、今日の箇所は次回ともつながる。そのような文脈で聴くべきところであります。さらにこの25節には前の箇所との結びつきを示すもう一つの言葉があります。日本語訳では、「イエスはこう言われた」となっておりますけれども、正確に訳しますと、「イエスは答えて言われた」です。しかし、直前の箇所に誰かの質問が記されているわけではありません。どういう意味であるのかといえば、主イエスは24節までに語られたことへの応答として、今日の25節以下をお語りになられたということです。

 

■主イエスの賛美の祈り

それでは、24節までのところに何が語られていたのか、示されていたのか、ということを今一度振り返りたいと思います。20節からの箇所には、主イエスが御言葉を語り、数々の癒しの御業がなされたにも関わらず、ガリラヤの人々は悔い改めなかった、ということを主イエスが嘆いておられました。救い主である主イエスが遣わされたにも関わらず、またその道備えをした洗礼者ヨハネをも人々は受け入れず、聴こうとしないということが示されていました。それらの応答として、今日の25節以下が語られているのです。また、次回共に聞く12章ではファリサイ派が主イエスを批判するということが語られます。主イエスの周りには、受け入れない民、批判する律法学者たちが取り巻いています。多くの人が悔い改めず、敵対しているそのさなかで、主イエスは「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と賛美の祈りをお捧げになりました。その理由が「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった」からであります。つまり、「これらのこと」とは主イエスがお語りになり、そして御業として示された神の国の福音のことであり、神の恵みのご支配が到来しようとしているというメッセージです。それが知恵ある者や賢い者には隠されて、幼子のような者に示されたということは父なる神の御心であるとして、父なる神に感謝の祈りを捧げておられるのです。神の国の福音をある者には隠し、別の者には示しておられる、それが父なる神の御心であり、神の御業なのだ、と主イエスは語っておられるのです。

 

■私と同じように父を知る

神の国の福音が隠されているのは知恵ある者、賢い者。そして神の国の福音が示されて、その福音を信じ、悔い改めたのは、幼子のような者であると言われています。これは幼子のように純粋に信じるのが良いと言われているのではないのです。主イエスが語っておられるのは、父なる神が示してくださるかどうか、ということです。神が隠されるならば、どんなに賢い者でも知ることはできないし、神が示されるならば、幼子のように理解に乏しくとも信じてほめたたえることができる、ということです。そしてそれは、「父からわたしに任せられている」と主イエスは言われるのです。27節にありますように「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」主イエスは父なる神からの全権大使、すべてのことを委任されて、この世に来られたお方です。主イエスと父なる神の関係は「父のほかに子を知る者はない」という関係です。ここで驚かされますのは、普通、「父の他に子を知る者はなく」とくれば、それに続く言葉は「子のほかに父を知る者はない」とくるはずでありますけれども、主イエスはそうではなく、「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」と言われました。つまり、主イエスが招き、そしてそれに従う者、主イエスと共にある者たちは、父なる神を知ることができる、と言っておられるのです。主イエスが知っておられるのと同じように、父なる神のお姿が示されると言われました。神に向かってそのように言われたのです。それも主イエスの知っておられる父の百分の一とか、十分の一というような一部ではなく、全く同じように、と言っておられるのです。それは喜びの時だけでなく、主イエスが十字架の絶望の中で、「わが神、わが神」とお呼びになったように、私たちも悲しみや、嘆き、苦しみの中においてさえも、主イエスと同じように、「わが父」と天におられる神を呼ぶことができるということです。私たちの力で神に到達するのではありません。主イエスが私たちを招き、そして父なる神の御旨を開いて見せてくださるのです。

 

■わたしのもとに

今日の箇所の後半、28節は聖書の中で最も有名な言葉の一つでありましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この御言葉を今お話ししてきました前半の部分との繋がりで読みますとき、この「わたしのもとに来なさい」という言葉の意味がはっきりいたします。父なる神からすべてを託され、そして父なる神と絶対的な関係でつながっておられる主イエス。その方につながっているならば、父を知ることができる、父と呼ぶことができるのです。だから、わたしのもとに来なさい、主イエスはそのように言われるのです。この世の中で生きていく中で、私たちにはさまざまな重荷があります。疲れている者もありましょう。個人的な悩み、悲しみ、人間関係に疲れている者、また、人と関わることで痛みを覚えている者、それらを自分ではどうしたら良いかわからず、身動きが取れなくなってしまうこともあります。そうしたさまざまなことで疲れ果ててしまい、生きていくことに苦痛すら覚えている者もあります。それらはいずれも自分でなんとかしたいと思っても、どうにもならないという堂々巡りに陥っているのです。その解決の糸口も見つけられないゆえに苦しいのです。しかし、私たちは自分の力で生き抜くことはできず、自分の力でまことの安らぎを得ることはできないのです。私たちには知性や知恵が与えられていますけれども、それらの知恵を持って考えることには限界があり、それを持って平安を得ることはできないのです。イザヤ書55:8にありますように、神の思いは、わたしたちの思いと異なり、神の道はわたしたちの道と異なります。そして天が地を高く超えているように、神の道はわたしたちの道を、神の思いは、わたしたちの思いを、高く超えているのです。私たちはそのような私たちを大きく超える神に委ね、それを私たちに示すためにお与えくださった主イエス・キリストという具体的なお方のもとに来るときに、平安が与えられる、安らぎを得ることができるのです。

 

■くびきを負う

主イエスは「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と言われました。「わたしのくびきを負いなさい」、「わたしに学びなさい」、「安らぎを得なさい」このように三つの言葉を重ねられました。くびきを負うこと、学ぶこと、安らぎを得ること、これらは同じことを言い換えられた、ということであろうと思うのです。くびきを負うというのは、牛や馬が農機具などを引くために二頭を固定するための道具です。ですから、くびきを負っている間というのは、働かされているときであって、それを外されてやっと牛や馬は休むことができます。しかし、主イエスはくびきを負っているときに、休みを見出すのだとはっきり言っておられます。くびきを負っているとき、牛や馬はその行動を制限されます。そしてくびきがあることによって荷を運ぶことができる、そのような道具です。旧約の時代、律法がくびきでありました。彼らが神の民にふさわしい生活をするために、その道筋を示すものとして律法があり、それは彼らをしばるものであったのでした。主イエスは単にくびき、つまり旧約の律法を取り去るという形で安らぎを与えられるのではないのです。主イエスはそのような律法を廃棄するためではなく、新しい律法を与えるためにいらっしゃいました。新しい掟、それがこのマタイ福音書5章から示されてきた主イエスの山上の教えでありました。

 

■わたしに学ぶ

そして「わたしに学びなさい」とあります、この「学ぶ」と言う動詞が名詞になりますと、弟子という単語です。ですから、「主イエスの弟子になりなさい、そして私が教えたように生きなさい」と言っておられるということです。それもまた、山上の教えを思い出しなさい、ということでありますけれども、5章から7章の山上の教え、それらは確かに厳しさを示すものでもありました。しかし、それらの教えは私たちが自分たちの頑張りでなすものではなく、すべて神の恵みを受け取り、神に委ねて生きよという事でありました。ただそのことによってのみ安らぎを得られる。主イエスはそのように言っておられます。主イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから」と理由を示しておられますけれども、これは主イエスの人柄、性格というような事ではありません。存在そのものが柔和と謙遜なのです。フィリピ書2:6-8にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」神であられる主イエスがわたしたちの僕となって、十字架におかかりになってくださったのです。主イエスが「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。」と主イエスが語られたその言葉は、とても重いものです。全ての人のすべての責任をわたしが取る。と言ってくださったという事です。主イエスのご生涯、僕としてへりくだって、十字架に至るまで父なる神に従順であられた主イエスのご生涯は、ただ私たちのために、私たちの安息、私たちの安らぎを確保するためのものでありました。神の恵みのうちに私たちを置くためにであります。そして主イエスは言われます、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。」なぜでしょうか。牛と牛が繋がれる、そのくびきは負担でありますけれども、主イエスのくびき、それは主イエスとつながり、そしてその重荷は主イエスが担ってくださるのです。

 

■結び

私たちが実際に生きていくことというのは、重いことでありましょう。そこには労苦があり、重荷があり、悲しみがあり、苦しみがあります。しかし、その重荷を担ってくださるお方があるのです。私たちには労苦する中でも安らぎがあるというこのまことに不思議な恵みを主イエスによっていただいているのです。安らぎとは単に体の疲れの癒やしとかではありません。日本語訳では書かれていませんけれども、原文では、「あなたがたは『魂に』安らぎを得られる」となっております。私たちの全存在が満たされるということです。

だからわたしのもとに来なさい、わたしのもとで安らぎを得なさい、主イエスはそう言われるのです。わたしたちはその招きに応えて、主イエスのもとにいき、そしてそのくびきを負って主イエスと共に生きる。それは少しの疑いも持つ必要のない招きであり、主イエスの約束であります。父なる神はそのようにして私たちを救いの御手のうちにおいてくださるのです。

 
 
 

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