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『来るべき方はあなたですか』2025年7月27日

  • NEDU Church
  • 5 日前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『来るべき方はあなたですか』

聖書箇所:旧約聖書 イザヤ書29:18-19(旧1106ページ)

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:1-6(新19ページ)

説教日: 2025年7月27日・聖霊降臨節第8主日 

説教: 大石 茉莉 牧師


はじめに

今日の箇所のはじめ、11章1節は前回までの10章における弟子の派遣の結びです。10章5節が派遣の始まりで、こうありました。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。」そしてそこから派遣に際する心構えを命じられたのでありました。そして11章1節、「イエスは十二人の弟子たちに指図を与え終えると」とありますから、ここまで語られたことがその内容ということです。それが先週まで共に聴いてまいりました弟子たちへの厳しい指示でありました。厳しいお言葉が続いていましたが、人を恐れず、ただ神のみを畏れよということが語られていました。そしてこの1節からわかりますことは、主イエスが指示を出されて、彼らを遣わした後、主イエスご自身が方々の町で教え、宣べ伝えられたということです。それは主イエスが共に働かれるということです。さらにはこのマタイによる福音書の最後28章19節、復活された主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という大宣教命令において「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたことと繋がっています。共におられるだけでなく、共に働いておられることが、この今日の11章1節に示されています。この11章2節以下は弟子たちを派遣しておられる間の出来事として語られていることです。12章になりますと、再び、主イエスは弟子たちと行動を共にされます。

 

■ヨハネの問い

今日の2節から6節は洗礼者ヨハネの問いです。洗礼者ヨハネは牢に捕えられていました。洗礼者ヨハネはヘロデ王が兄弟フィリポの妻であったヘロディアを妻にしたという罪を告発したことで捕えられていました。ヨハネはいつ殺されるかわからない極限状態で過ごしていました。不安、そして苛立ちもあったことでしょう。ヨハネは力強いメシアを待ち望んでいました。邪悪な支配者を退けて、神の支配をあらわに示してくれるメシアを待っていたのです。そのことが示されているのが、マタイ3章11節以降です。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」こうありますように、メシアが到来すれば、そのお方は裁きを行い、この世の悪が取り払われる。人々は苦しみから解放される。ですから現在の自分の理不尽な投獄も、メシアがきてくだされば解かれるとも思っていたのです。そして洗礼者ヨハネは牢において、主イエスがなさったことを聞きます。正確に言いますと、「キリストのなさったこと」と2節に記されていますように、実は洗礼者ヨハネはメシアのなさったことを聞いています。主イエスのなさったことを獄中のヨハネは直接には見ることができませんから、弟子たちから報告を聞きました。その内容は8章から9章35節までに記されています、癒しの御業でありました。主イエスが来られた時、この方こそメシア、救い主であると確信していたヨハネでしたが、主イエスのなさったことを聞くと、自分の思い描いていたメシアとは違うようだ・・・そう感じたヨハネは弟子に尋ねさせたのです。「きたるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」

 

■洗礼者ヨハネの揺らぎ

皆様は洗礼者ヨハネにどんなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。私の持っていたイメージは、体格はがっちりしていて、確信に満ちた表情をした人、一言で言えばそんな感じです。「らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めて、いなごと野蜜を食べ物としていた」と記されるヨハネは自分の使命を理解し、ストイックな生活をして、信仰は揺らぐことなく、まっすぐな人、そんな風に理解されているのではないでしょうか。次週共に聴きます11章11節にも記されていますように、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と主イエスが言われるほどの立派な人、強い信仰を持った人であったのです。しかし、そのような洗礼者ヨハネの信仰がここで揺らいだということが示されています。ああ、洗礼者ヨハネも決して特別な人ではなく、私たちと同じ人間なのだとちょっとほっとするような気がします。私たちは神、救い主に勝手なイメージを持っていて、苦しみの中にある時、あなたが救い主なら、この状態をなんとかしてください、なんとかできるはず、何もしてくださらないあなたをこのまま信じていていいのですか?と揺らいでしまうことがあります。強い信仰の持ち主ヨハネでも同じような思いを抱いたのだということが示されています。そして洗礼者ヨハネにおいて、事態は深刻でありました。ヨハネは厳しい裁き主としてのメシアを信じ、それゆえに人々に悔い改めを求めました。領主ヘロデに対しても同様に、その罪を指摘し、自らが信じる救い主を妥協せずに語った結果、捕えられて牢に繋がれているのです。いつ殺されるのかもわからない状況において、来るべき方と信じていた主イエスの行いは罪人を断罪するのではなく、招くためであると言われ、そして天の父、神の愛、養い、導きを語っておられる。自分が命をかけてしてきたことは間違っていたのだろうか、そして無駄だったのか、そのような思いがヨハネの心の内に沸き起こりました。「主イエスよ、あなたがなさる御業、そしてその御言葉に、神の真理が生き始めていると信じて良いのでしょうか。神の真理がこの世に具体的に来ていると信じて良いのでしょうか。あなたのなさっていることは神の勝利を表していると信じて良いのでしょうか。」そのような思いを確かめずにはいられなかったのです。それゆえに、「きたるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」という問いが発せられました。

 

■メシアの働き

そのような問いを投げかけてきたヨハネの弟子たちに、つまり、私たちに主イエスはこうお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」この主イエスのお言葉はイザヤ書のいくつかの箇所から取られています。今日の旧約聖書イザヤ書29章もその中の一つです。主イエスが山上で教えを語られたのちの癒しの御業が8章から記されていました。重い皮膚病を患っている人、百人隊長の僕、多くの病人、悪霊に取り憑かれた人、中風の人、二人の盲人、口の利けない人を癒し、会堂長の娘を生き返らせました。罪人や群衆に福音を告げ知らせました。まさにイザヤの預言に語られている通りのことが主イエスによってなされました。主イエスはご自分のなさったことを聖書の言葉でお答えになられたのです。ヨハネの弟子たちに「あなたが見たまま、聞いたまま、そのままを語れば良い。」そのように言われたのでありました。見えない人の目が開かれて、口の利けない人が語れるようになったというのは、神にしかできないこと、神の御業です。神の代理人ではなく、神ご自身がそこに来ておられるということのしるしです。「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。」そのようなことがあなたの目の前で起こっている。それを聞いている、そして見ているではないか、それが答えである、と主イエスは言われるのです。

 

■解放の始まり

人々には解放が告げられ、福音が告げられています。神の国は確かに始まっています。福音とは喜びを告げるということです。解放を告げるということでもあります。そうでありましたならば、主イエスの御力を持ってしたら、ヨハネの捕えられている獄中へ行って、解放する、救い出すことぐらいなんでもないことであったと言えましょう。しかし、主イエスはそのようにはなさらなかった。そして洗礼者ヨハネはこの後、殺されてしまいます。マタイ14章にその時のことが記されています。主イエスはヨハネがこのような死を迎えることを知っておられたでありましょう。そして死ぬに任せておられました。とても厳しいことです。しかし、主イエスはそのヨハネに言っておられます。あなたの弟子たちが、聞いて、そして見たことを噛み締めてご覧なさい。喜びの言葉が語られて、そして解放の業が始まっている。神の勝利なのだ。あなたも罪の呪いの中で殺されていく。それは私も同じである。私も死を迎える。しかし、だからこそ、福音が語られ、解放が確実になり、神の支配が広がり、神の勝利が告げられるのだ、と。主イエスはヨハネの後を追うように、十字架へと向かわれました。人々が背負いきれない重荷を主イエスが背負い、そして十字架で死なれました。人を裁くのではなく、自分が裁かれた救い主なのです。主イエスは、重い病の人、目の見えない人、足の不自由な人、聞こえない人、貧しい人、罪人と呼ばれる人、そのような人々の中に踏み込み、共に歩き、共に悲しんでくださいました。そのような人々の苦しみの穴にご自分から入ってくださり、そして人々を救い出してくださったのです。徹底的に低みに降りてくださった救い主であられます。

 

■つまずかない人は幸い

「わたしにつまずかない人は幸いである。」主イエスはそのように言われました。わたしにつまずく、とはどういうことでしょうか。「つまずく」という言葉は、腹を立てるという意味があります。つまり自分の期待したものと違うものに腹を立てて、それを蹴飛ばしてそこからどけるという意味です。期待外れのものが自分の妨げとなっている、厄介なもの、邪魔なものに腹を立て、邪魔であるとして蹴飛ばして退ける、ということです。主イエスが「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われたのは、逆の言い方をしますと、「わたしに腹を立てる者がある、わたしを邪魔だと思う者がある」ということです。神の御業を認めず、神の救いはこんなものであるはずがない、と思った人々が、主イエスを蹴飛ばして、捨てさり、十字架につけたということです。自分の願望に合わない神の働きを認めない人々は、そうして主イエスに躓きました。主イエスの十字架は、主イエスにつまずき、そして腹を立てた人々の躓きのしるしであります。

 

■結び

「主イエスにつまずかない人は幸い」しかし、それは一度もつまずかない、ということではなく、躓きの中にこそ、私たちを真に生かす、神の真実があるということを見出しうる人が幸いなのであります。私たちも「来るべき方はあなたですか?」と問うようなことが度々起こります。しかし、私たちにはすでにその方は与えられています。もう他の誰をも待つ必要はなく、この方お一人に従い、この方に希望を見て、この方に信頼し、この方と共に生きるという道が示されている、それが私たちの幸いであります。私たちもさまざまな揺らぎの中を生きています。私たちの信仰生活は堅固なものではなく、ときに危うく、ときに脆く、おぼつかない足取りで歩みます。しかし、そのような揺らぎのときにこそ、覚えたいと思います。あなたこそが、来るべき方、弱き者たちと共に生き、低きところで苦しんでくださるあなたが共におられるということを覚えたいと思うのです。主イエスは私たちと共にいてくださり、共に働いてくださいます。この大いなる恵みに感謝し、歩んでまいりましょう。

 
 
 

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