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『わたしのもとで』2025年7月20日

  • NEDU Church
  • 7月21日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『わたしのもとで』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:1-5

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書10:34-42

説教日: 2025年7月20日・聖霊降臨節第7主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」今日の冒頭の主イエスのお言葉を聞いて、どのように思われるでしょうか。とても厳しい主イエスのお言葉に驚かれるのではないでしょうか。さらにこのように続きます。「人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」剣、敵、このような言葉は私たちの心をざわつかせます。主イエスの教え、そして主イエスの存在、それは平和、愛、和解・・・であるはず。主イエスが来られたのはそのためではなかったのか。剣を投げ込むとか、敵対させるためというのはどういうことなのか。このように思われることでしょう。家族の間にも不和が起こり、家庭が崩壊すると言われているのです。私たちはこれを聞くと、主イエスにお従いすることが良いことなのかどうかもわからなくなってしまい、下手をするとつまずきにさえなってしまいそうです。主イエスに従う信仰によって与えられるものは平和であったはず。自分にもそして家庭にも平和が来ると思ってきたのです。主イエスはどうしてこのようなことを言われたのでしょうか。

 

■敵対する家族

35節の「人をその父に/娘を母に/嫁をしゅうとめに。こうして家族の者が敵となる。」という言葉は旧約聖書ミカ書7章6節からの引用です。ここには民の腐敗という小見出しがつけられています。つまり、ユダヤの民が罪の道を歩んできたことが脈々と語られているのです。そうして民は敵対した状態になっているということが示されています。友人や家族との信頼が失われて、親子の関係も断絶に至る。そこには尊敬も愛情もなく、神の民、共同体の崩壊です。それは民の神への背きに対する神の裁きということです。続く7章7節で「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」と預言者ミカは続けています。そのような中にあっても私は神に従う、という言葉がありますが、これは預言者ミカの信仰の告白であります。神に従い、神に希望を置く者たちは神の裁きにあうことなく、神の守りのうちにあるということが語られています。そしてこのマタイ福音書において主イエスが人々に語られたこの言葉の意味はこのミカの信仰の告白を重ねているのです。ですから、37節以下、「わたしを愛しなさい。そして自分の十字架を担ってわたしに従いなさい。」神を愛し、神に従う。これが主イエスがここで語られたことの中心的なメッセージなのです。この10章の始めで主イエスは十二人の弟子を選ばれ、そして彼らの派遣にあたり、彼らへのはなむけの言葉、彼らに弟子の覚悟を語ってこられました。今日の箇所はその最後です。この箇所で弟子として主イエスに従う者の覚悟を明確に示しておられるのです。主イエスの福音、救いを受け入れるということは、有無を言わせぬ厳しさを持つものであり、従いなさいは、今すぐに、というような緊張感を持つものです。すでに8章21節に示されていたような、従いなさいーまずはこちらを終えてから、というような比較対象や言い訳を持たないということです。主イエスと共にあることによって生かされる、主イエスに従うことによって生きる、まずこのことが生きる基本としてある、このことを主イエスは弟子たちに見つめさせようとしておられるのです。私たちはこのように聞きますと、とても自分は・・・と思ってしまいがちですが、わたしたちそれぞれに信仰が与えられた時も、自分の都合の良い時ではなく、神のご計画に従ったということなのです。今は仕事が忙しいから、キリスト者になるのはもう少し先にしようとか、学校を卒業するタイミングの方が良いかな、というようなことは全く関係なく、私たちにも主イエスに従う道が示されてきたのではないでしょうか。

 

■剣の向かう先

実際のキリスト教会の歴史を見てみますと、復活の主イエスが天の父のもとに帰られた後、弟子たちそしてパウロは宣教という彼らの使命を果たして行きます。その際、どのようなことが起こったか、といえば、それはここで主イエスが語られた緊張関係があちらこちらでありました。16節以下に示されていた迫害がありました。弟子たちに対する迫害だけでなく、初代教会において様々な混乱、敵対がありました。家族や共同体の中から、主イエスを信じる者が出たならば、反対が繰り返し起こりました。パウロ自身もキリストを信じる前はキリスト教徒を家族から引き離して迫害し、回心後にはパウロ自身が同胞からは裏切り者として迫害され、キリスト教徒からもスパイなのではないか、と思われて受け入れられませんでした。また、コリントの信徒への手紙1の7章にも記されていますように、夫あるいは妻がキリスト者になり、もう一方の配偶者が異教徒のままでいた時に、夫婦、家族の中には緊張関係が生じました。まさにそれらは敵対する関係でありました。しかし、そのようなときに相手が立ち去ることを求めたならば、力で応戦するのではなく、去るがままに任せなさい、とパウロは助言しています。それら全ての時、剣は常に相手から投げ込まれました。剣はどこに向いているかといえば、相手に対して剣を振りかざすのではなく、弟子たち、キリストを信じる者たちに剣が突きつけられているということです。主イエスがまさに捕えられる時、ゲッセマネでの祈りのとき、ユダが祭司長や長老たちを連れてやってきたことが全ての福音書に記されています。祭司長や長老たちは剣や棒を持って主イエスを捕えにきました。戦闘態勢です。ユダの接吻を合図に、彼らは主イエスを捕えました。それを見た弟子たちは持っていた剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかり、片方の耳を切り落としたと語られていますが、その時、主イエスは言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」剣は主イエスに向けられたのであり、そして主イエスは人々が振りかざす剣で死なれたということです。主イエスは剣をもたらす目的でいらしたのではなく、主イエスがいらした結果、剣がもたらされたということです。

私たちに向けられる剣は、主イエスがお一人でお受けくださった。弟子たちはそのことを心に留めていました。迫害において、「剣を振りかざすのではなく、剣を納めなさい。」この主イエスが言われたお言葉、その声が弟子たちのその伝道の道のりにおいて何度も聞こえたに違いありません。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」主イエスはそのようにお教えになられました。主イエスの教えの要がマタイ福音書では22章に記されております。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「隣人を自分のように愛しなさい。」です。剣を振りかざすのではなく、剣を納めるとはそういうことです。力に相対する力からは平和は生まれないのです。

 

■まことの命

主イエスは39節以下で「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と言われました。それは別の言い方をしますと、「あなたがたが命を得ることができないのは、自分の命を得ようとしているからだ。」ということです。自分の命、それは私たちに与えられたものでありますけれども、決して、自分の思い通りに、自分の自由にできないものです。私たちは誰でも老いて行きますし、また、病気なども自分の思い通り、自由にはならないことを示しています。私たち人間に必ず訪れる死がそのことを決定的に表しています。自分の死、家族の死、私たちはその命が自分たちの自由になるものではない、ということを知らされるのです。主イエスはこれから遣わす弟子たちがどのような道を歩むのか、どのような死を遂げるのか、を知っておられました。遣わされる弟子たちは、この世で迫害を受けます。主イエスによる救い、福音を宣べ伝える彼らは殉教の死を遂げる者もあるのです。しかし、そのような殉教というようないわば英雄的な死によって、まことの命が得られるということではありません。自分の命が誰のものであるか、ということです。自分のものとして自分の力によって生きるのか、主のものであるとして、主イエスに従って生きるのか、ということです。パウロはそのことをローマの信徒への手紙14章8節で次のように言っています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」自分ではなく、神を信頼し、神により頼んで生きる。それが「命を得る」と言う言葉で語られました。主イエスのもとにある命とはどう言うことでしょうか。私たちは家族を愛していようとも、私たちの家族に対する愛では死を超えることはできません。愛する人の命が終わろうとしている時、私たちにはどうすることもできない。どなたにも経験がおありでしょう。私たちの愛では死に打ち勝つことはできないのです。しかし、主イエスの元には永遠の命があります。肉体の死を超えて、人を生かし、恵みを与え続けてくださる神の命、神の愛、死に勝利する命です。なぜならば、主イエスは人としてこの世に来てくださり、そして人として十字架でその血を流して死なれました。私たちのすべての罪をお引き受けくださいました。父なる神は主イエスを復活させてくださったのです。罪と死に打ち勝つ永遠の命をこうして示し、さらに与えてくださったのです。この罪の赦しと死への勝利が、主イエス・キリストにある命です。この主イエスにある命は、主イエスに従うということによってのみ与えられるものです。しかし、私たちは自分に固執するという頑なさを持っています。ただ一切のものから手を離し、主イエスにお委ねすればあふれる命が与えられます。親が子どもに、「こちらにおいで」と呼んだとき、幼いうちはその呼び声のところにすぐに真っ直ぐに向かっていた私たちであるのに、今や、「こちらに来なさい」と言う主の声が聞こえても、周りに目が向いて他のことを優先させようとするのです。私たちが誰のものか、ということをとことん自分に言い聞かせたいと思います。

 

■結び

こうして主イエスによって与えられる命を求めて歩むのが、弟子の姿、信仰者の歩みです。近しい人の理解が得られないこと、人々との軋轢が生じることもあるでしょう。主イエスに従って生きると言うことは、平安や喜びだけではなく、苦しみが伴うこともあるでしょう。それが自分の十字架として示されています。しかし、その十字架は、主イエスが先頭に立って担ってくださったものなのです。そして苦しみや対立の中で剣を受けてくださったのは主イエスであるということを覚えたいと思います。そのことを覚えて歩むとき、主イエスがすべてを受けてくださったことを知り、そして共にいてくださることを知り、私たちの心の剣を納めたいと思うのです。40節以下には「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」弟子として歩む者と主イエス、そして天の父のつながりが示されています。先ほどイザヤ書55章1節以下を共に読みました。神がその恵みに何の条件もつけず、ただで与えてくださることが示されていました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」続く2節にもこのように神の私たちへの言葉があります。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」神は大盤振る舞いをなさるお方です。私たちを愛しておられ、ご自分のあふれる豊かな恵みを私たちに与えたくて仕方がないのです。その究極は主イエスという愛する独り子の命を持って、支払ってくださったことに証明されています。そして私たちはその恵みを、まことの命をただでいただくことができるのです。そして神はその恵みを多くの人々に受け取ってもらいたいと願っておられます。「冷たい水一杯を飲ませてくれる人」はきっとたくさんいます。神に遣わされた者として、神の恵みを分かち合いたいと願います。私たち一人一人は小さな存在でありますけれども、神は私たちを用いて、私たちに一杯の水を飲ませてくれる人を生かし、教会の群れへと招いてこられたのです。私たちの働きはそこにあります。

 
 
 

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