説教題: 『母の胎にある時から』
聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 1章11~17節
説教日: 2024年1月21日・降誕節第4主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日の御言葉、聖書の小見出しには「パウロが使徒として選ばれた次第」と書かれております。この箇所はパウロの自伝的な文章であると言われています。「わたしと神様との出会い」というような形で皆様も証しをなさることがあると思います。証しは確かに自分自身の体験を語ることであり、自分はこうであった、そしてこうなった、というようなことを書いたり、語ったりするわけですが、証しをする意味は、わたしという人を通して、神がどのように働いてくださったか、ということを伝えるためのものであります。神を、キリストを証しするのであり、自分の体験を通して、父なる神を指し示す、これが証しであります。パウロもこの箇所において、自分のことを語っているのは、そのことによってイエス・キリストの福音をはっきりと告げるためであるのです。
パウロは、冒頭の11節ではっきりといいます。わたしがあなた方に告げ知らせた福音、この福音、これはわたしは人から受けたのでも、教えられたのでもない。当時、エルサレム教会において、認められていた使徒たちから受けたのでもない、それはイエス・キリストの啓示によって知らされた。パウロはこのように断言いたします。パウロがイエス・キリストから直接に受けた啓示とは・・・このことを確認するためには、パウロのそれまでの生き方を確認しなければならないでしょう。パウロは何を大切にして、何を守っていたのか、全てはそこから始まるのですから、少し丁寧に当時のパウロがどのような生き方をしてきた者であったのか、それらを確認しておきたいと思います。
■徹底したユダヤ教徒サウロ
かつて私がインドネシアのジャカルタに住んでいた時、イスラム圏であるその地では親が子供にコーランを教えている姿をよく目にしました。母国語でないアラビア語で書かれているコーランを繰り返し読み聞かせ、読ませ、覚えさせていくのです。インドネシアの人々はとてものんびりで、良くも悪くもゆったりとしていましたが、コーランの教育については、学校も家庭もとてもとても熱心で驚きました。彼らのほとんどはイスラム教徒として割礼を受け、いわば律法としてコーランを学ぶということになります。ですから、パウロがサウロであった時、それが当たり前で正しいものであったと思っていたのと同じです。しかしそれは教育であって、神との出会いによる福音とは異なるものなのです。日本においてもキリスト者は子供達をキリスト教主義の学校に入れたりはするでしょう、しかし、それは教育であって、福音とは異なるものです。親が熱心なキリスト者で聖書を教えたからと言って、子供たちが必ずキリスト者になるとは限らないのです。パウロは人から聞いたり、教えられたのではない、誰か使徒たちから受けたのでもない、知識ではない、ただ、イエス・キリストから受けたのだ、というのです。これは決してパウロに限ったことではなく、誰もパウロと同じように、直接、神と出会う体験をする、そのことによって信じる者とされるのです。それは教育や知識とは異なるものです。
パウロは13節、「あなたがたはわたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。」とあります。ここではパウロというよりも、サウロと言った方が良いでしょう。筋金入りのファリサイ派サウロであった、このことは誰もが知っていることでありました。生まれながらにして厳格なユダヤ教徒として生まれ、律法に精通し、それを守ることで救いに与ると信じていたサウロです。その教えが正しいことを疑わず、むしろそれ以外のものは間違いであるとして排除してきたのです。「わたしは徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」パウロは回心前の自分を自信に溢れて語っています。主イエスとの出会いによる回心によって救われた者であるという確信が大きければ大きいほど、回心前の自分は弱く、ダメな人間であった、と語っても良さそうですが、パウロはそうは語らないのです。それは決してパウロがかつての自分を正当化しているわけでもありません。これはパウロの自慢ではなく、この徹底した完璧なほどのユダヤ教からの対極への逆転、主イエス・キリストとの衝撃的な出会い、それは徹頭徹尾、神の御業であること、福音の素晴らしさを伝えることが目的でこのように話すのです。
■サウロからパウロへ
パウロがどのように主イエス・キリストと出会ったのか、そのまさにパウロと主イエスの正面衝突のような出来事、それは使徒言行録9章に記されています。少し途中を略しながらにはなりますが、読んでみたいと思います。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げエルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」これがサウロと主イエスの出会いでありました。主イエスはサウロを異邦人や王たち、またイスラエルの子らのために選んだ器である、と弟子のアナニアに告げます。そしてその言葉に従ったアナニアがサウロの上に手を置いて、「兄弟サウル、主イエスはあなたが元どおり目が見えるようになり、聖霊で満たされるようにと、わたしを遣わされたのです。」と告げ、そしてサウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになったのでありました。サウロは洗礼を受け、元気を取り戻した。」これが迫害者サウロが信仰者パウロへ変えられた出来事であります。
主イエスによる恵み、福音は喜びの知らせであり、Good News であります。喜びの知らせ、Good News は確かにこの2千年、伝え続けられてきたものでありますけれども、その知らせを聞くことと、福音を受けることとは一緒ではありません。単なる情報としての伝達ではなく、キリストの出会いによって私たちはGood Newsを自らの福音として、恵みとしていただくのです。「目からうろこ」これは誰もが知っていることわざであり、まさにサウロの実体験がそのまま言葉になったものです。今まで見えなかったものが見えるようになる、全く新しい考え方が与えられる、別の視野が開ける、サウロは180度の方向転換をすることとなり、サウロからパウロへと新しい生を主イエスによって与えられたのであります。
Good News、人はそれを聞いた時、まずは知識として理解します。そしてそれに対する反応は、いくつかあることでしょう。特に反応しない、反対する、受け入れる、単純に分けるとそのようになるでしょう。パウロは今までは反対する、の極致であったのです。それが受け入れる、となるには、主イエスご自身による直接の介入が必要でありました。パウロが「この福音、恵みは人から受けたものではない」と言うのは、この主イエスとの直接の出会いによるのだと言うことを強調するのは、この実体験によるのです。パウロはこのように特別とも言える仕方で福音を授けられました。パウロがかつては見えなかったものを見えるようにしてくださったのです。主イエスは「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」とヨハネ14章7節で言っておられます。まさに、パウロはダマスコ途上で主イエスを知ることにより、父なる神を知りました。それはパウロの神理解が根底から覆されるものであり、同じ神でありながら新たな神として、イエス・キリストの父なる神として発見するに至ったのです。
■「神の教会」
今日与えられている箇所の中に、パウロが今までと対極に立ったことを自らが表現している言葉遣いがあります。それは「神の教会」という言葉と「ユダヤ教、ユダヤ教徒」という言葉です。パウロにとって、神に仕えるとは、律法に忠実であり、律法に適った行いをすること、これが唯一の救いの道であると考えていました。ですから、十字架の主イエス、復活の主イエスによる救いを説くキリスト教会は神に敵対するものとしか考えられませんでした。ですから迫害していたのです。しかし、ダマスコ途上での主イエスとの出会いによってキリストの教会を迫害することは、神に敵対することであると知ったのです。それゆえ、彼は教会を「神の教会」と言い表すのです。キリストを信じる者として集められている教会は、神に属するものであり、神のものであり、神の御心に適ったものなのだと彼は知ったのです。それゆえに彼は13節で「神の教会」と言っているのです。そしてまた、13節、14節でユダヤ教徒、ユダヤ教、という言葉が使われていますが、これも今の自分と切り離したものとして言い表されているのです。今まで自分が信じていた神のために、その神に忠実であろうとして自分が行なっていたことは、まさにその神を滅ぼすことに結びつくと気づかされたことは、驚きでありましたが、パウロにとって大きな恵みの出来事として捉えられるようになったのです。イエス・キリストが救い主として知らされただけでなく、神の子であると知らされました。そしてさらにそのことを異邦人に告げるようにと、神によって示されたことも16節にパウロは記すのです。
■母の胎にある時からの選び
そのこと、つまり神からの召し、召命を知らされた時のことをパウロは「母の胎内にある時から選び分け」と表現しています。これは主なる神がエレミヤを預言者として召し出された時の言葉でもあります。エレミヤ書1章4節、5節。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎に生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。』」パウロはこの言葉を引用して自らに与えられた使命、召命のことを語るのです。この言葉に表れているのは、パウロの気持ちとか、パウロの意志とかではなくて、神が私をどうしたいか、神の思いがどうであるかというそのような神の視点に立ったものです。そしてこの言葉はパウロの明確な信仰告白の言葉であると言えます。ヨハネによる福音書15章16節にも「あなたがたがわたし、つまり神を選んだのではない。わたし、神があなたがたを選んだ。」という御言葉がありますが、キリスト者となるには、確かに自らが信仰告白をして、主イエス・キリストを信じますか?という問いに「はい」と答えることでありますけれども、それは私がキリストを選んだのではなくて、神が私を選んでくださり、キリストと出会わせてくださった、ということであり、私が選択した、私が決めた、のではなく、神が捉えてくださり、神の計画によって救いに入れていただいた、ということであるのです。
■結び
パウロの主イエスとの出会い、そして180度の方向転換、そしてその後のパウロへの使命、それはある意味、特別なものでありましょう。しかし、私たち、一人一人が神様と出会った時、神様に招かれた時のことを思いますとき、それはそれぞれが客観的に証明できるようなことではなく、まさに、神のご計画の中に招かれた、としか言えないようなことではないでしょうか。神との出会いは子供の時かもしれない、大人になってからかもしれない、もしくはもはや死を前にしたときかもしれない、神はそれぞれの時を用意してくださっている、私たちはそのことを強く信じて祈るのでありますし、感謝を持って受け入れるのであります。確かにキリスト教についての学びは自ら努力して加えてきたものかもしれません。しかし、どれだけ知識が増し加わったとしても、私たちが母の胎の中にある時から神は私たち、一人一人を選ぶという、神の恵みと憐れみが注がれているのです。選びの時や方法、選びの自覚、それは神がお決めになることであります。そして何よりも素晴らしいことは、私たちは神のものである、ということです。神が私たちを捨て去ることは決してありません。そのことを思う時、私たちは神のもとにある安心と、神の守りの中にあることへの感謝を持って、この方にお応えしたいと思うのではないでしょうか。それが私たちの日々、生きる力となるのです。
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