説教題: 『完全なる信頼』
聖書箇所: マルコによる福音書 12章1~12節
説教日: 2023年6月18日・聖霊降臨節第四主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
主イエスの最後の一週間、エルサレムでの出来事を読み進めております。今日の箇所では、主イエスがたとえで「ぶどう園と農夫」について語られたことが記されております。誰に向かって語られたのか、と言いますと、最後の12節に「自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」とありまして、それは前回の11章27節以下の問答と続いております。ですから、11章27節に出てまいります祭司長、律法学者、長老たちに向かって語られたのでありました。この権威に関する問答で彼らは「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がそうする権威を与えたのか。」と主イエスに論争を仕掛けました。その論争の中で、主イエスはその質問に直接にはお答えにならず、そして今日のたとえをお語りになったのです。
■ぶどう園の譬え
主イエスはぶどう園と農夫の譬えをお話になられました。「ある人がぶどう園を作り、農夫たちに貸し出して、旅に出ました。収穫の時期になったので、僕を農夫たちのところに送ります。しかし農夫たちは、僕を捕まえて袋叩きにしました。他の僕も殴られ侮辱されました。他にも多くの僕を送り、ある者は殴られ、ある者は殺されました。そして、自分の息子なら敬ってくれるだろうと最後に愛する一人息子を送りました。農夫たちは、跡取りである息子を殺してしまえば、財産は我々のものになるとそして話し合い、捕まえて殺し外に放り出した、のでありました。
今日のこの聖書箇所はイザヤ書5章1節から6節までが下敷きになっています。少し長いのですが、その箇所をお読みします。旧約聖書1067頁です。「1わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。/わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。2よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。/その真ん中に見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。/しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3さあ、エルサレムに住む、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。/わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。5さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。/囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ6わたしはこれを見捨てる。/枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。/雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」今日の聖書箇所で主イエスがお語りになったことを理解するために、まずはこのイザヤ書が示していることをお話したいと思います。1節に示される「わたしの愛する者」は神、肥沃な丘はイスラエルの土地が豊かであること、そしてぶどう畑はイスラエルを意味します。神は豊かな土地にイスラエルの民を置きました。そして、土地は肥沃でもそのままでよい畑であるわけではありません。パレスチナ地方は石が多い土地でありました。それらの石を丁寧に取り除きました。そして取り除いた石で見張りの塔、やぐらを建て、野獣や泥棒から守りました。また同じく取り除いた石で酒ぶね、つまり上の段で踏みつぶしたぶどうから流れるぶどう汁を受けることができるものも作りました。こうして至れり尽くせりの準備をして、あとは良いぶどう酒ができるのを待つだけでした。しかし、甘くよいぶどうはできなかった。ここまでしたのに、良いぶどうができなかったのは何故か?それはイスラエルの民の背き故です。神の一方的な恵みによって、イスラエルは特別な主のぶどう畑としていただいたにもかかわらず、この選びに反逆したのでした。良いぶどうの代わりに、酸っぱいぶどうが実ったのでありました。イスラエルの民は神の恵みを無にしており、正しく答えていないことがこのイザヤ書に示されています。
■イスラエルの預言者達
ユダヤの人々は旧約聖書に精通しておりましたし、ましてやラビと言われる律法学者たちはくまなく暗記しておりました。ですから、ぶどう園の話と言えば、すぐにこの箇所が思い起こされているのです。このイザヤ書を下敷きにして、今日の聖書箇所の登場人物を当てはめますと、ぶどう園を作ったある人とは主なる神様、そしてぶどう園を委ねられた農夫たちとは、イスラエルの民の指導者として立てられている祭司長、律法学者、そして長老たちのことであります。主イエスは、譬えを通して、父なる神と神の民として歩むイスラエルの民、そして更にイスラエルの指導者との関係をお示しになったのです。
さて、ぶどうは植えてから収穫できるようになるまでに最低でも3年、通常は5年から7年かかると言われています。そして2節にあります「収穫の時になったので」と言う言葉の意味するところは、単にぶどうが収穫できるようになった、というのではなく、そこからぶどう酒を作り、そして利益があがるようになった、と言う意味です。ですから、農夫たちにはかなりな時間が与えられておりました。そして最初にこの「ある人」は垣を巡らし、搾り場を掘り、やぐらも作り、と恵まれたぶどう園を作ったのです。ここには神のご自分の民に対する愛が示されています。神の守りの中、祝福の中を歩む様に望んでおられるということです。そしてこの農夫たちを信頼しています。しかし、その農夫たちは送られてきた僕を一人目は袋叩きにして追い返し、次の僕は頭を殴り侮辱し、そして三度目に送られてきた僕は殺してしまいました。この送られてきた僕たちとは預言者達のことであります。このことはエレミヤ書7章24節以下に語られています。「彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。お前たちの先祖がエジプトを出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」
この農夫たちはやりたい放題であります。自分たちの思い通りに、自分たちのいいようにいたしました。つまりはこのぶどう園の主人を見くびっているのです。自分たちのやりたいようにやれる、と思っているのです。預言者を殺すというのは神の言葉を殺すということです。神をばかにしているのです。
■一人息子を送る
それにもかかわらず、この主人は愛する一人息子を送るのです。それも「わたしの息子なら敬ってもらえるだろう。」と考えております。息子なら権威があり、それゆえに、今までの僕たちの仕返しをするため、ではないのです。なぜそのように思えるのでしょうか。この主人はまだなお農夫たちを信頼しているのです。自分の愛する一人息子を送れば、自分の愛に気が付いてくれるに違いない、愛を受け入れてくれるであろう、そう思っているのです。これは人間にはとてもできない愛の形です。私たちならば、とてもこの農夫たちを信頼することはできません。信頼するどころか、このような裏切り、背信行為に傷つき、訴えるとかの反撃行為に出るかもしれません。しかし、神は信じ切っておられる。主イエスはこの譬えを通して、神の真実はそのように変わらないと言い続けておられるのです。このたった一人の愛する息子とは、言うまでもなく主イエスのことです。ここで注目すべき言葉が記されています。6節に「最後に」と言う言葉があります。ギリシア語でエスカトンと言いますが、終末を意味する言葉です。御子である主イエスが遣わされるということは、順序として最後というだけではなく、最終的存在という意味であります。ヘブライ人への手紙1章1節には「神は、かつて預言者達によって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた。」と書かれていますが、まさにその通りなのです。
神である主人は、旅に出ておられました。その間を取り持つのが僕である預言者達でありました。その預言者達を殺し、そして究極的に御子を殺すことは、神ご自身を殺してしまうという最大の罪を犯すことになります。それも民の指導者、宗教的指導者たちがそれをまさにしようとしているのです。この譬えは11章に主イエスがエルサレムにお入りになったところからつながっております。これらの宗教的指導者たちの生きざまは、葉ばかりが生い茂り、中身のないいちじくのようであり、神の祈りの家である神殿を神不在の自分たちに都合の良いように使い、強盗の巣として、そして、今や神の独り子を殺して、ぶどう園全体を自分たちの物として横領しようとまで考えているのです。主イエスは父なる神が彼らを信頼したように、御自分も最後まで彼らを招くことができれば、とこの譬えをお語りになったのではないでしょうか。しかし、彼らの心には届かなかった。気づいたのでしたが、悔い改めませんでした。自らが悔い改めるのではなく、主イエスを排除するということしか考えませんでした。過ちを示されながら、悔い改めない人間の罪の姿が示されているのです。
■隅の親石
さて、主イエスは譬えの最後に詩編の御言葉を語られました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」詩編118編22、23節です。隅の親石とはかなめ石とも言われます。家を建てる者、大工さんが役に立たないと思って捨てた石が建物全体を支える土台の石、一番大事な石になった。主なる神のなさることはこのような不思議さをもったものである、ということです。この言葉は代々、教会の人々によって主イエスの十字架のことを語っていると理解されてきたことは明らかです。捨てられた石のようにされた主イエスが、わたしたちにとってかなめ石となり、親石として一番大事な石になり、わたしたちはその石を基礎として、新しい家、教会は建てられてきた、ということです。この詩編118編は長い詩編でありますが、その始まりと終わりは「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」であります。そして「慈しみはとこしえに」は118編の中で何度も繰り返されています。神の恵み、神の慈しみが讃えられている詩編です。そしてその18節にはこのようにあります。「主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。」私自身の罪、それに対しては滅びではなく救いが与えられたことが語られています。そのように神は人間の罪にも関わらず、救いを与えてくださることがこの118編で語られているのです。その恵みが詠われる中に、「退けた石が隅の親石となった。これは主の御業/私たちの目には驚くべきこと」とわたしたちには計り知れない神の愛の大きさが示されています。主人の愛はわたしたちの常識を大きく超えています。捨てられた石、主イエスが隅の親石となって、新しく神の家、主イエス・キリストの体である教会が建てられてきたことは、私たちの目には不思議なことであります。
■結び
主イエスは主人が戻ってきたら、農夫たちを滅ぼすと言われました。主人の裁きはどうなったのでしょうか。農夫たちである祭司長、律法学者、長老たちに下されたのではありませんでした。農夫たちによって殺された愛する一人息子の犠牲ゆえに、主人は農夫たちを赦したのです。農夫たちは相続財産を自分たちのものにしようと思って、一人息子を殺しました。それは罪以外の何ものでもありません。しかし、そうして罪人たちの手によって十字架にかけられた主イエスの死によって、神は罪人を赦されたのです。神の裁きはそのようにして貫かれました。主イエスの十字架の死は、人間の罪の象徴であると同時に、神の計り知れない愛が示されている事でもあるのです。主イエスはご自身で、このぶどう園の譬えにおいて、父なる神の独り子であるご自分が殺され、ぶどう園の外に放り出される、つまり、十字架にかかって殺される、と話されました。それはそのことを通して神の救い、神の愛が実現することを示すためです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」神の驚くべき信頼と愛をわたしたちはただただ恵みとして日々、いただいているのであります。感謝して今日も祈りましょう。
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