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『祈りに養われて』 2025年1月26日

説教題: 『祈りに養われて』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編51:1-21

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書6:11-15

説教日: 2025年1月26日・降誕節第5主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「だから、こう祈りなさい。」主イエスが弟子たちに直接に教えてくださった祈り、主の祈り。前々回にその前半部分から聴きました。今日はその後半部分11節以降の祈りから聴きたいと思います。前半の3つの祈りは、神の御名が崇められ、神の御国がきますように、神の御心がおこなわれますように、と全て神についての祈りでありました。それに対しまして、今日ともに聴きます11節以下は、その始まりを見てもわかりますように、「わたしたち」に関する祈りであります。この主の祈りは旧約の民に与えられた十戒、律法の成就として主イエスが示された、と前回、お話しいたしましたように、十戒はその前半部分が神に向かう戒めであり、後半部分が人間生活における戒めです。この主の祈りも同様に、前半部分が神に向かう祈りであり、そして今日学びます後半が人間生活に関わる祈り、というように重なっていることがお分かりになることでしょう。十戒がそうであったように、この主の祈りも神を信じて、神と共に生きるためのものであり、その前半は神に焦点が当てられて、後半は私たちに焦点があてられていると言えるわけです。

 

■必要な糧を今日与えてください

さて、その人間生活における最初の祈りが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」です。かつて飽食の時代と言われたこともありましたが、今や食べるものがないという時代ではありません。むしろ食料の廃棄が問題になっている時代です。しかし、主イエスの時代はその日に食べるものを得ることができないという人々が多くいました。ですからそのような人々にとっては、今日の糧を神に祈り求めること、それは、切実なことでありました。私たちにとっては、この祈りはすでに聞き届けていただいた必要のない祈りでしょうか。また、私たち自身は食べ物に困っていないけれども、世の中には食べられない人々が多くいるのだから、その人たちのために祈りましょう、という勧めでしょうか。このマタイ福音書の4章に遡りますと、主イエスがサタンから誘惑を受けた時のことが記されております。空腹であられた主イエスにサタンは石をパンに変えたらどうだ、と言われました。それに対して主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われました。人間にとっては、単に食べるものがあれば良いという話ではないのです。少し話は変わりますが、「完全メシ」という言葉を数年前から聞くようになりました。タンパク質や、ビタミン、ミネラルなど必要とされている栄養素の必要摂取量を全て満たして作られた機能性食品ということで、味もよくできているということですが、さて、それを食べていたら人間は満たされるのでしょうか?十分なのでしょうか?非常時や時間のない時などにそれを食べるのはやむを得ないのかも知れませんが、毎日毎日、毎食毎食、栄養素が満たされているからといって、それで満たされるでしょうか?お腹は満たされるかも知れませんが、気持ちは満たされないのではないでしょうか。私たち人間にとって、食べる事というのは、馬や牛に必要な飼料、餌を与えるという事とは根本的に異なる事なのです。毎回の食事において、私たちは経験をいたします。それは味であったり、素材の季節感であったり、作った人のことを思ったり、ということです。私たちはそのようにして満たされるのでありましょう。そしてそれは食事だけでなく、礼拝において、聖書から、与えられる言葉によって満たされる。キリストが私たちのうちに生きて働かれ、私たちはその言葉によって潤うのです。私たちに必要な糧、それは実際のパンが与えられますようにと祈るのと同時に、今日も神の言葉によって満たされる日でありますように、という祈りなのです。

 

■負い目を赦す

12節の御言葉を主の祈りにおいて祈る時、「我らに罪を犯す者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」この言葉を口にするときに、おそらく胸にチクリとするような思いをなさる方が多いのではないかと思います。「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りから、急に自分の感情に突き刺さってくるものになるからです。朝に夜に主の祈りを祈りますとき、前の日、その日を振り返り、どれだけの人と関わりを持ったであろうか、と思いを馳せます。必ずや、誰かと関わり、話し、触れ合っている生活を私たちは送っています。そこには喜びだけではなく、悲しみや痛みをも伴うものでありましょう。そして人に傷つけられたと感じることもあり、怒りをも覚えることもあるでありましょう。この「赦し」に関する祈りを祈りますとき、私たちが戸惑いを覚えるのは、赦すということが難しいことだからです。人を赦せないと思うとき、自分は正しく、そして相手が間違っている、それ故に怒りと憎しみさえ覚えてしまうのです。この赦しということについて、マタイ18章に主イエスが語られた譬えがあります。ペトロが主イエスに問うのです。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」主イエスは言われます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」いえいえ、一回でも赦し難い、と思っていますのに、七の七十倍、つまり、完全に赦すということを求めておられる。とてもできない、と感じてしまいます。主イエスは仲間を赦さない家来、家来を許した主君の譬えを話されます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」神の無条件の赦しがあります。わたしたちは神の無条件、無限の赦し、憐れみ、慈しみをいただいている、そのことを思い出しなさい、と言っておられるのです。自分の感情に支配されているとき、人は相手を赦すことはできません。私もどうにも相手を赦せない、と思うことがありました。怒りを通り越して、呆れてしまうほどのことが起こり、傷つけられて、その人を赦せない以上、その人との関わりをなくすしかないと思うほどの出来事がありました。自分の気持ちをコントロールできず、そしてまた、主イエスの教えに従えない自分をも赦せないと思ったのです。そのときに私に与えられましたのが、今のマタイ18章33節の御言葉でした。私自身のことを私自身でなんとかしようと思うのではなく、私の全てを支配しておられるのは主であるということを思い出すということでありました。赦せない心を偽ることはできません。そしてそれを変えることもできません。私にできることは、その心はそのままに、主にお委ねいたします。「主よ、あなたが赦せと言っておられますから、そのように決めます」と言うことでありました。怒り、赦せないのは古い自分なのです。私たちは本来、主に結ばれて、新しい自分にされているはずなのです。パウロがロマ書8章でいう通り、私たちは霊に従って生きる者とされています。しかし、古い自分、肉による支配はこびりついていて、このようなときに顔を出すのです。ヘブライ12:1―2にありますように、重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、信仰の創始者、完成者であるイエスを見つめるべきなのです。主イエスがこのように祈りなさい、と言われたのですから、私にできるかどうかなどということは放り出しましょう。そのようにしているうちに、神は私たちを癒し、新しくしてくださるのです。

 

■試みにあわせず

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」日々祈ります主の祈りでは「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」であります。私たちの信仰生活における最も深刻な誘惑は、神から引き離そうとする誘惑。創世記3章、最初の人間アダムとエバが蛇の誘惑によって罪に陥り、神から離れました。私たちの受ける試み、誘惑の根本がここに示されています。人間は神によって造られ、そしてどの木からも食べて良いという自由を与えられていました。しかし、この木の実だけは食べてはいけない、という禁止事項がありました。それが神との約束であり、踏み越えてはならないという神がお定めになった命令であり、神と共に生きるルールでありました。しかし、蛇はそんなルールに縛られず、自分の思い通りに自由に生きたら良いではないかと誘い、人間はその誘惑に負けてしまったのでした。私たちが今、生きていく中で、さまざまな試みを受けますが、根本的にはこの誘惑があります。神を主人とするのではなく、自分が主人になって、自分の思い通りに歩ませようとする誘惑。私たちは日々、そのような誘惑を受けて心が揺さぶられ、そして心が神から離れ、神との関わりなしに生きる、それは祈りのない生活ということでもあります。私たちは弱く、私たちの信仰は脆く、不確かなものです。ですから、神よ、守ってくださいと祈るのです。主イエスも誘惑をお受けになりました。マタイ4章には、主イエスが悪魔から誘惑をお受けになり、そして十字架の直前、主イエスはゲッセマネで祈られました。そして弟子たちにこう言われました。マタイ26章41節「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」主イエスのこの地でのご生涯は誘惑の生涯であったと言えるでしょう。そしてそれら全ての誘惑を退けて、主イエスは歩まれ、誘惑に負けることなく、十字架への道を進まれた勝利者でありました。最初の人間アダムとエバは主イエスを知らない者たちでありました。しかし、私たちには主イエスが共にいてくださり、そして主イエスがこのように祈りなさい、と教えてくださった祈りが与えられているのです。私たちは誘惑に弱い者たちであり、もっと楽しいこと、もっと楽なこと、もっと自由なことがあるよ、別に祈らなくてもいいじゃないか、という誘惑の声にさらされています。しかし、私たちが祈るとき、主イエスが共にいてくださり、そして目には見えないけれども、私たちはそのようにして養われているのです。「神よ、守ってください、神よ、助けてください。」と言う祈り、これが私たちの弱さに打ち勝つ道として備えられているのです。

 

■結び

主イエスを知らない人々の祈りは、自分の願いが叶うことを祈り求める祈りなのではないでしょうか。しかし、主の祈りは、「天にまします我らの父よ」と神を父と呼びかけ、「御名が崇められますように」つまり、神を神とする世界となりますように、と祈ります。「御国が来ますように」つまり、この世の権力や支配ではなく、神の支配がなりますように、と祈ります。「御心が行われますように」つまり、自分の思いではなく、神の意志が示されますように、と祈ります。そして、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」つまり、単に食べ物だけでなく、御言葉によって養ってください、と祈ります。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしに負い目のある人を赦しましたように」つまり、主イエスの十字架の死によってわたしたちに与えてくださった神の赦し、恵みを覚え、人の罪を赦す者であれという神の御心を覚えるのです。「わたしたちを誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」つまり、主よ、助けてください、と祈るのです。このように主の祈りは私たちがこの現実の世界で生活する中で、信仰と結び合わさって、私たちの生活が信仰に基づくものとなって、この世での日々の生活へと押し出してくれるのです。主の祈りを祈りつつ、祈りに導かれて、私たち自身がキリストを証しする者たちとして生かされていくのではないでしょうか。キリストの十字架の死によって罪赦された私たちに与えられている「主の祈り」、この大きな恵みの祈りを今日も明日も、心からの祈りとして神にお捧げしましょう。

 

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